グリーンマン
やっと見つけた町、というよりも、まるで時代劇に出てくるような村に人影はなかった。
砂利道と村とがぶつかる場所には門。
柵以上にしっかりとつくられているそれはかたく閉ざされている。
中には入れなかった。
とても現代的とは思えない、粗末に見える家々の回りに人影は無い。
仕方なしに柵に沿って歩き出し、そうして分かったのはまだ村の中の人々は眠っているのだろうという事だ。
そうして歩いていく内に、ひとつの家の影に井戸があるのを見つけた。
小さな屋根の下に垂れ下がるロープ。
それはそのまま下の真四角の石組みの中に伸びていて、どう見ても井戸でしか有り得ない風情。
それを見つけた瞬間、疲れ切った体のどこにそんな力が残っていたのか、柵へと飛びつき、何度もずり落ちそうになりながらも、その上へとよじ登り、村の中へと身を踊らせた。
竿とリールを柵の外へと放り捨てたまま。
つまづき、転がりながらも井戸へと辿り着き、ロープへと手を伸ばす。
引っ張り上げようとして、その重さに一度ロープから手が離れた。
井戸の中は暗く、あるであろう桶の大きさは確認出来ない。
しっかりとロープをつかみ直し、慎重に力を込めて引っ張り上げていく。
そうして少しずつ、少しずつ引っ張り上げ、やっとの事で現れた桶は両手でひとかかえするような、予想以上に大きなものだった。
なんとか左手でロープを支え、右手で桶の取っ手を掴む。
井戸の端へと震える手でなんとか置き、そのままその桶へと顔を突っ込んだ。
あわてて飲もうとして、むせる。
どれくらいぶりの水だったのか。
これほどまでにただの水をうまいと思った事は無い。
そう思える程に、その水は甘く、渇き切っていた体に染み渡った。
水を飲めた事で安心したせいか、もうそのまま一歩も動けなくなってしまった。
腹は空いたまま。
それでも、水が飲めたのは大きい。
私はそのままそこに横たわり、目を閉じた。
「……ぃカ……パクナ……ら」
眠ってしまったのだろう。
重なり合ういくつもの声に目を覚ました。
気が付けば、そこは井戸の脇などではなく、家々が取り囲む小さな広場の真ん中だった。
私の服を脱がそうとしていたのか、間近にいたふたりの男が、私が起きた事に気が付いて、飛び退く。
その手には私が着ていたライフジャケットが握られていた。
私は身を起こし、自分の身を確認する。
まだ小手もブーツもマウンテンパーカーも、身につけたままだった。
辺りを見回すと、そこにいる人々は皆一様な格好をしていた。
布の袋に首と手を入れる穴だけを切ったような簡素な貫頭衣。
肌の色は浅黒く、髪は赤みがかった黒だった。
聞こえる声は日本語などではなく、何ひとつ聞き取れない。
そんな人々が私を取り囲むように輪をつくっている。
「あの」
声を出した瞬間、まるで鳥がさえずり合うように響いていた声がやむ。
「ぁ、あのここは……」
言葉は最後まで続けられなかった。
「……!!」
ひとりが怒鳴った。
さらに別の誰かが怒鳴る。
その声に呼応するように、やがて誰もが叫んでいた。
最初、ばらばらだった言葉がひとつの言葉になり、唱和される。
あっけにとられ、見渡しているうちに石を投げつけられて、はっきりと分かった。
しきりに叫ばれている言葉、その内容を。
立ち上がろうとする間にも、投げつけられる石の数は増えていく。
最初、小石だったそれはやがて大きくなる。
出てけ、なのか。
敵だ、なのか。
そこにあるのはむき出しの敵意だ。
顔を守ろうと手を出すと、不意に小手が輝き、石のひとつを弾く。
その瞬間だけ投石がやんだ。
唱和されていた声がまたばらばらな鳥のさえずりになる。
今だ。
逃げるなら、今しかない。
取り囲まれていた人の輪の中から、比較的人の少ない箇所をすばやく見つけると、そこに向かって走った。
先程までと違って、人々の私を見る目が憎しみから恐怖へと変わっていた。
ちらりと小手が光ったおかげだろうか?
しかしそれを考えている暇は無い。
体当たりするように人々に向かうと、あっさりと輪はとけた。
走る。
後ろからは叫び声だけが聞こえていた。
振り返らずに走り、やがて見つけた柵を乗り越え、その村の外へと出た。
◇
村の外へと出たのは良いものの、行くあてなんて無かった。
何よりも空腹だったし、村の外へと出た途端に力が抜けてしまった。
村が遠く見える場所まではなんとか体を引きずるようにして離れた。
幸いな事に追ってまではこないようだ。
どうしてああまで憎まれたのかは分からない。
単純に、余所者を受け入れられない村なのだろうか。
なによりも、あの言葉だ。
全く聞き取れなかった。
それどころか同じ地球上の言葉とは思えなかった。
それは、あの人たちと同じで。
不意に、誰かの事を思い出そうとして、また頭が痛んだ。
そういえば竿とリールを置いてきてしまったままだった。
村の外の柵の影にあるはずなので、すぐに見つかってどうこうされるとは思えない。
それでも、あれをそのままにはしておけない。
川も湖も、沼も、海もまだ目にしていない。
それでも、あれがなければ釣りが出来ない。
あの村からは離れるべきだとしても、釣り道具があれば、いつか釣りが出来る。
自らの手で食料を得られる。
ライフジャケットはこの際、どうでも良い。
溺れるような事態には、水の中に落ちなければどうということはない。
夜を。
それだけを思って、遠く村を眺めながら木の影でただただ動かずに待った。
◇
追ってくるかもと思った村人は結局は現れなかったので、夜を待って、あの村へとまた忍び込んだ。
最初、夜になってもなかなか明かりが消えなかった。
煌々と炎のゆらめきが遠巻きに見えていた。
それも、夜が深まるにつれて小さくなり、やがて消えた。
最初に向かったのは昼間、竿とリールを置いてきてしまった場所。
そこには、何も無かった。
とりあえず柵を越え、井戸で水を飲み、乾きを癒す。
そっと村の中を動き回って、竿とリールを探すついでに、何か食べるものが無いか、探す事にする。
一軒の家の庭先で、青く丸い実がなっている木を見つけた。
それを取って食べてみたものの、ひどい味で食べられたものでは無い。
他にもトマトのように見える実がなっている草を見つけたけれども、それもひどい味だった。
畑でもあれば良いのに。
そう思って探しても、それを見つける事はできなかった。
そうしている内に探しまわった家々の中で、ただひとつ、周囲の家よりも大きな家を見つけた。
それは他の家と違って柱の上にある、高床式の建物だ。
柱にはネズミ返しがある。
それを見て、これが倉なのだと確信する。
しかし、倉にはハシゴがかかっていない。
入り口らしきものはあれども、そこに入るためのものが何も無い。
周囲を探しまわっても、見当たらなかった。
仕方無いので、ブーツを脱いで、なんとか柱を登ろうと試みる。
既に歩き回っていて、足の裏には血豆が出来ていた。
登ろうとするたびに、痛み、さらに破れた皮からうっすらと流れ出した血は滑り、なかなか思うように登れない。
それでも、ここしか食料がないのだとすれば、そうするしかない。
時間をかけ、苦心し、ようやくの事で柱を登り、なんとか倉の中へと入れた。
そこにあったのはいくつもの麻袋。
その内のひとつを無理矢理に破り開けた。
中に入っていたのは米にしてはやけに丸い、小さな豆のようなものだった。
試しにいくつかを口の中へと放り込み、噛む。
ひどく硬く、大した味もしない。
それでも食べられなくはない。
口の中にまとめてほうばりながら、ポケットというポケットに豆とも米ともつかないそれを押し込んでいく。
ポケットがぱんぱんに膨れあがったところで、外の様子を窺った。
昼にあれだけ騒ぎになっていたのが嘘のように静かだ。
他に何かないのか、倉の中を探すと、竹の筒のような、しかし質感はまるで石のようなものを見つけたので、それを手に倉から出た。
しばらく探しまわってみたものの、結局は竿もリールも見つからなかった。
ライフジャケットも見つからない。
仕方無い。
無いものは無い。
いつまでもウロウロしていて、また村人に見つかっても面倒なことになるだろう。
最後に井戸へと向かい、水をひとしきり飲んで、筒にも水を入れて村を出た。
手には水の入った筒。
それだけを手に、歩いた。
どこに行こうと思った訳でもない。
ただ、あの村以外にも、何かあるのではないか。
そんな妄想に近い願望をかき消す事ができなかっただけだ。
悪い夢。
そう思うには、痛む足、飢えと渇きはリアルすぎる。
どこに行きたいというよりも、ただ見たかった。
見覚えのある何かを。
現実的な何かを。
今まで自分がいたはずの世界の何かを。
あの砂利道沿いにずっと進んでいたはずだったのに、気が付けば道を外れ、最初に見た景色のような野山のような場所を歩いていた。
一度振り返ったものの、結局はそのまま進む。
道を行けば、また村にでも辿り着くかもしれない。
それでまたあのむき出しの敵意に触れるのか?
それとも夜に忍び込んで、盗みを働くのか?
そんな事をするくらいなら、ひとりになりたい。
ひとりが良かった。
竿とリールのことだけが気になったものの、今の自分には取り返す術があるとは考えられない。
お金も何もないのだから。
着ている物を差し出せば、可能かもしれない。
しかし、それを交渉するにも言葉が通じない。
考えても溜め息が出るばかりだ。
引きずるようになだらかな斜面を進みながらも、目は水を求めてさまよう。
川でも良い。
湖でも良い。
それこそ人の作った水路でも良い。
筒に入っていた水は既に無い。
飢えはあの豆のような穀物でごまかせる。
しかし渇きだけはどうしようもない。
生い茂る草の葉に付いた水滴を舐めて、渇きをごまかした。
途中、適当な長さの木の枝が落ちているのを見つけて、それを拾う。
本当は竹の方が良い。
しかし、いまだ竹らしきものは見かけていない。
休憩した時に、余計な枝をポケットツールで切り落とし、ポケットの中に押し込まれていたナイロンの糸をその先へと結びつけた。
そうしている間は無心になれた。
枝を振ると、意外にしっかりとしなる。
糸を引いて、しなりを確かめると、思ったよりは使い物になりそうだった。
よほどの大物がかからない限りは使えるだろう。
即席の竿、それを手に立ち上がる。
また日が傾き始めていた。
今日はどこで寝るのだろうか。
ぼんやりと思ったものの、それよりも渇きが気になってそれどころではない。
仕方なしにまた歩き出し、どれほどの距離を進んだ時だったのか。
耳鳴りがしている。
最初、それをそう思った。
ごぉー、ごぉーとしきりに耳に響き続けるそれは足を進めるたびに大きくなる。
それが、水音だと気が付いたとき、私は転がるように前へ、前へと走り出した。
そこにあったのは、細いながらもしぶきをあげて流れる急な渓流だった。
◇
焦って走り寄ろうとして、足を滑らした。
木々の間に突如として現れたその流れの回りには、苔むした岩がごろごろしていた。
水はそこにある。
慌てる必要は無い。
足取りを慎重なそれへと変えて、そろそろと近づいていく。
まずはとにかく水を飲んだ。
こんなに生水を飲んで、大丈夫だろうか?
ちらりと思ったものの、考えたところで、濾過する装置も、沸かす火もない。
喉をならして飲み、ひと心地ついたところで改めて周囲を見た。
川幅は1.5メートルほどだろうか。
浅いながらも、急な流れ。
あまり急な斜面ではないにも関わらず、急な流れなのは余程の勢いで水が湧き出しているからなのか。
覗き込み、ひとつの石を拾い上げた。
そこにはトビケラの幼虫にも似た小指の爪ほどの虫が数匹蠢いている。
ポケットをまさぐり、豆のような穀物をこぼしながらも、ひとつのルアーを取り出した。
それは一本針のついたスプーン。
こういう急で狭い流れの中ではルアー釣りは難しい。
針だけを外して、さっきの即席の竿へと結びつけ、小さな虫を針につける。
ポケットの中をさらに探ると、使い潰したスプリットショット(がん玉ともいう。丸い形状の鉛の重り)が出てきたので、それも針から離れたところにつけた。
今いる場所は既に私が水を飲んだり、不用意に川に近づいてしまって荒らしてしまった。
川からいくらかの距離を置いて、川下へと向かってゆっくりと慎重に歩いていく。
これだけ早い流れなら、あの翡翠を釣る時ほどには気にしなくても良いかもしれない。
それでも、今のこの竿は2メートルちょっと。
こういう場所で釣りをするにはいささか短い。
糸は長めに結んであるとはいえ、それでも道具が揃っているとは言いがたい。
流れを見ながら歩いていると、流れがゆるみ、岩の陰になっているポイントを見つけた。
そっと身をかがめ、ゆっくりと、それこそ一歩を踏み出すのに数分はかけるイメージで川へと近づく。
幾度か軽く竿を振って距離を確かめた後、ゆるみへ向かって竿を振った。
重りのついた針はゆるやかな弧を描いて飛び、一度近くの岩に当たって弾かれるように狙ったポイントへと落ちた。
まるで何年かぶりに竿を振ったような気がしていたけれども、実際には1日も経っていない。
腕は鈍ってはいないようだった。
ゆるみに伸びる糸をしっかりと睨みつけるように見る。
浮き(魚のアタリを見るために糸に付ける目印。沈めば魚が食い付いたと分かる)もなければ、糸にマーカーもついていない。
魚が食い付いたかどうかは、糸に表れる変化で見分けなければならない。
ナイロンの糸は細く、そして色もほとんど透明に近い白。
一度、視線を逸らせば、すぐには視認出来なくなってしまう。
意識を糸だけに向ける。
音は消えて、ただ細く伸びる糸だけに集中する。
変化はすぐに表れた。
たるませ過ぎず、張らせすぎずで垂れていた糸がゆるみから横に走った。
瞬間、竿を立てた。
糸がぴんと張られ、そこから竿先へ、そして竿を握る手へと電気が流れるのにも似た痺れるような感覚が走る。
それはすぐに重みに、そして疾走へと変わる。
「はっ」
短く息が漏れた。
力強い引き。
しかし、型(魚の大きさのこと。サイズ)はどうやら大きく無さそうだ。
そのまま力任せに引き抜く。
魚はすぐに水中から抜け出て宙へと舞った。
手元まで飛んできたので、左手を伸ばして、糸を掴む。
それはイワナにも似た魚。
大きさは15センチをやや超えたくらいだろう。
イワナと違うのは、体に模様が無く、背中側が真っ黒で、お腹側がやや暗い緑になっている事だ。
よくよく見れば、その緑は苔だった。
苔の生えた魚。
あまりにも奇妙だ。
「……食べられるのか?これ?」
そこまで考えて、火が無い事を思い出した。
まあ、それでもせっかく釣ったのだから、何か考えよう。
そう思って、ポケットツールを、そこに収まっている小さいナイフで腹を裂いて、内蔵を抜いた。
また流れへと近づいて、内蔵を捨て、餌になる川虫を取った。
魚は適当に抜いた草を口からエラに通して、ベルトに通して下げておく。
また流れを下っていき、ポイントを見つけては餌を落とした。
あまり型は出ないものの、それは簡単に釣れた。
2匹釣り、3匹釣ったところで、釣りをやめて座り込んだ。
いくら釣れても調理できなければ仕方無い。
生で食べるという手もある。
しかし、寄生虫のたぐいがいたらという思いがちらりと頭をよぎった。
またあの村まで戻るか?
確かにあの村には火があった。
それには適当に歩き過ぎている。
もはやどっちの方角にあの村があるのか、まったく判断のしようがない。
さて、どうするか。
思案しているところに、ふと何かの音を聞いた気がした。
辺りを見回す。
相変わらず何の生き物もいない。
あるのは流れと岩と草と木。
緑。
そして黒。
そしてまた緑だ。
気のせいだったか。
そう思ったところで、また音がした。
きちんと確認した方が良いかもしれない。
熊の類いだったりしたら。
そこまで考えて、立ち上がり、振り返った。
「ひっ」
息が詰まった。
いつの間に近づいてきていたのか。
そこにいたのそれを、最初、怪物だと思った。
背はあまり高くない。
しかし、全身緑の異様な立ち姿の怪物が突如として目の前に現れて、驚かない人間がいるだろうか?
思わず、バランスを崩して後ろに倒れそうになった私を、その怪物が肩を掴んで止めた。
「……っ!?」
叫びたい気持ちとは裏腹に、叫びは言葉にならなかった。
怪物が空いた方の手で、頭に手をやる。
すると、頭の緑がずるりととれた。
そこにあったのは、しわの多いおじいさんの顔だ。
そう、それは緑の草でつくったコートのような物で身を覆った、ひとりの老人だった。




