遠く
金剛と呼ばれる魚がいるらしい。
らしいというのは、8度狙って、一度も釣れた事がないからだ。
向かうのは第3ビオトープの、あの翡翠を狙ったのと同じ山にある別の湖。
決して大きくないその湖は、正直言って魚の気配がまるで無かった。
水面から覗き込んでみても、何の小魚も、虫の姿も見えはしない。
恐ろしいまでの透明度の水は、水中の岩に生えた藻のゆらめきすら克明に観察出来る。
そう、とても澄んでいるのだ。
生物の姿が見えないのは、決して水が腐っているという訳ではない。
水清ければ、魚すまず。
そんな言葉がふと脳裏に浮かんだ。
奇妙な生命感の無さは、ふとした瞬間に映像の中にいるような、そんな気にさせた。
鏡面そのものと言うしかないその湖で何度も竿を振った。
山の中の湖だけあって、水中では周囲の木々から落ちた枝がたくさん沈んでいるらしく、それにいちいちルアーが引っかかるのが鬱陶しい。
話では、随分前に、それこそ10年以上も前の開業当時に、ひとりの老人がたった1匹だけ釣り上げたらしい。
使っていたのがルアーなのか、フライ(羽虫に似せた疑似餌)なのか、それとも生き餌だったのか、釣れたという記録だけで、何を使ったのかは記録もされていないという。
10年以上前では、既にもうこの湖からはいなくなってしまっているのではないだろうか?
この生命感の薄さから考えても、有り得ない話とは思えない。
数は少ないだろうとも、絶対にいるはずなのでお願いします。
校長に直接言ってみた結果は、頭まで下げられて、お願いされてしまった。
金剛を狙う時には、お金は払わずとも良いとまで言われてしまい、結局はこちらが折れた。
金剛を狙う時には必ずその湖に行く前に、翡翠のいる湖で翡翠を狙った。
金剛ほどではないにしろ、翡翠もとても神経質で釣り辛い魚だ。
それでも、金剛と違って幾度か釣り上げていた。
なぜ翡翠を狙ってから金剛を狙うのか?
何も釣った翡翠を餌に使うわけでもないのに。
疑問に思って聞けば、校長はゲン担ぎだと笑って話した。
スーさんはそもそも話せないので聞いても答えてくれない。
まあ、坊主で帰るだけでは味気ないし、翡翠は狙い方さえ分かれば狙って面白い魚ではあった。
そうなのだ。
一度でも反応が得られれば、狙いようはある。
狙い方。
狙うべきポイント。
どういう状況なら反応し、そうでなければ反応しないのか。
一度の当たりで分かる事はたくさんある。
それが、金剛に関しては全く無かった。
あまりにも釣れないし、そもそも魚がいるとも思えない。
正直、黒曜でも釣っていた方が楽だし、楽しくはある。
それでも、校長直々のお願いとあって、しばらくは金剛を狙う事にしていた。
9度目も釣れず、そして10度目も釣れず。
そして11度目。
その日は翡翠が、たまたまだろうけれども2匹釣れたので、その内、1匹はスーさんにも食べてもらった。
いつも、大きめの翡翠が釣れても、食べる事を固辞していたスーさんも、結局は小さい方を手に取り、食べるとなればあっという間に彼女は食べ尽くした。
そして、金剛のいるという湖へ向かう。
その道すがらの事だった。
ごつごつとした岩や、むき出しになった木の根が道行きを鈍らせる山道。
その中でもひときわ急な傾斜を前にして、先を歩いていたスーさんが急に立ち止まり、振り返った。
最初、私は彼女の顔を見た。
いつもあまり表情を表に出さないポーカーフェイス。
その表情がこの時ばかりは違っていた。
口はわずかに開き、何事かをうわごとのように呟いている。
そして目がこれまでに見た事がないほどに見開かれていた。
その表情が示すのは驚き。
決して見ているのは私などではない。
私の後ろ。
つられるように、私も振り返る。
そこにあったのは光の奔流だった。
それはおびただしい数の蝶の群れ。
木々に遮られ、それほど明るくないはずなのに、まるで発光しているかのようにその羽根が虹色に輝いている。
その羽根はまるでネオンのようで、あっという間に私は、そしてスーさんも飲み込まれた。
光の奔流はあっという間で。
ぶつかると思ったそれに、思わず目をつぶる。
しかし、体はおろか、顔にも何もぶつかった感覚は無かった。
さざ波のような絶え間ない羽音ははっきり聞こえる。
やはりあの群れにぶつかったのは確かだ。
私は、おそるおそる目を薄く開いた。
圧倒的な色彩。
虹色のトンネル。
波打ち、まるで巨大な生き物の腹の中のように脈打っていた。
天も地も無く、すべてが光に包まれている。
不意に呼ばれた気がした。
それは聞き慣れない頃には、呼ばれたとは気付けない時もあった私を呼ぶ声。
「……キ」
振り向き、眩しい光の中で、その声の元を探した。
「ィキ!」
スーさんが光の奔流の中を泳ぐようにこちらに向かっていた。
たった5歩ほどの距離。
それが不思議と全く縮まらない。
「スーさん!」
どうして良いのか分からず、私もなんとか彼女の元に向かおうと思った。
そう思った矢先に、足が取られる。
岩だったのか、木の根だったのか。
目には見えずとも、確かにそれがそこにあったのかもしれない。
バランスを崩す。
その瞬間、光の奔流はあの真っ白な霧へと変じる。
倒れる刹那に感じたのは生暖かな風。
まるで息吹のように、怖気を誘うそれが私の首筋を撫でた。
「……っ!」
声にならない悲鳴が漏れた。
なんとか手をつこうと伸ばした腕はしかし、何にも届かない。
かわりにジェットコースターで感じた事のある、嫌な落下感が身を包む。
落ちていた。
視界ゼロの霧の中で、その事に気が付いた時、私は意識を手放した。
◇
いったい、どれほどの間、気絶していたのか。
膝よりは少し低い雑草が生い茂るその中に、私は横たわっていた。
身を起こして見えるのは林というには、まばらな木々。
ずきりと痛んだ後頭部に思わず手をやる。
触ってみても、特にこぶなどはなかった。
痛んだのは、ほんの一瞬で、さすっている間にも痛みは消えてしまう。
そのまま手を顔の前にやり、確かめた。
手を見、体を見る。
特に、けがなどはしていない。
痛むところもない。
ただ、横になっていた間に、生い茂る雑草についていた水滴を吸ったのか、はいているパンツが濡れて冷たくなっていた。
マウンテンパーカーの上にはあの銀色に輝くライフジャケット。
下はアウトドア用の速乾性のパンツ。
腕と足には例の金属製の小手とブーツ。
身につけているものはそれだけ。
周囲を見渡してみると、幸いな事に竿とリールは見つかった。
タックルボックスは無い。
あるのはマウンテンパーカーのポケットに突っ込んであった、僅かなルアーのみ。
他にはナイロン製の糸の束が出てきた。
リールトラブルで取り出した糸をポケットに入れてそのままにしていたものだった。
あとは小さなナイフやはさみがついたポケットツール。
とりあえず、今すぐに役立ちそうなものは何も無い。
不意に携帯電話の事を思い出したけれども、それは預けたままだった。
どこに?
考えようとして、頭がずきりと痛む。
痛む頭をさすりつつ、見渡す。
見覚えのない景色だった。
そこに斜面はなく、ただただまばらに生える木と、雑草が広がっている。
どうしてこんな所に?
考えようとして、また頭がずきりと痛んだ。
顔をしかめ、手を頭にやろうとする間にも、また痛みは消えてしまう。
頭をさすりながらも立ち上がる。
体が冷えていた。
立ち上がって見えるのは、木と草と空。
見えるのはそれだけで、他には何も見えない。
なんの人工物も無い。
一応、もう一度、何か落ちていないか探し、やっぱり何も落ちていない事を確認してから歩き出した。
道はない。
どこに行こうにも、何の目印もないのだ。
それでも、こんなところで寝ていても、何も無いだろう。
日はやや傾いている。
日暮れまでに、どっかに出ないと。
それだけを思い、取りあえずは傾きつつあった日に向かって歩き出した。
そうすれば、とりあえずは林の中をぐるぐると迷うことだけは避けられるだろう。
喉の乾きと、空腹。
歩き出してすぐにそれを覚えた。
それでも、歩き続ける。
食べるものは無い。
飲むものもない。
町に出られたら何を食べようか。
ああ、でもお金がないな。
交番でお金でも借りるか。
こんな山の中に水道やコンビニなんてものがある訳も無く、そんな脈絡もないことを考えながら歩き続けた。
後になって思えば、この時の私はとてもツイていたのだろう。
こんな山の中を歩いていて、アレに出くわさずに歩き続けられたのだから。
すぐに渇くはずのパンツがあまり渇かない事に辟易としながらも、夕暮れ前には林の外に出た。
眉をひそめる。
林の中でも多少、気になっていた。
生えている木は杉のようにまっすぐに伸び、松のような葉が生える、どっちつかずの見慣れない木だった。
そして木々が切れ、変わりに見えたのは、まるでアフリカの原野かなにかだ。
明らかに見慣れない光景だった。
テレビでどこか遠い外国の、自然番組を眺めているような気分になる。
目を強く閉じ、もう一度開いた。
テレビなどではない光景が目に直接飛び込んでくる。
訳の分からない恐怖。
視線が自分の意志を離れて、激しく動いた。
何かないか。
何か、見覚えのある何か。
なにかひとつでも、身近に感じられるような何かを視線は探す。
空白になってしまった意識とは無関係に。
何故?
何が?
どこ?
どこなんだよ。
「……どこなんだよ!ここは!!」
叫びが響き渡っても、動くものはなかった。
思わず座り込んでしまう。
ただでさえ感じていた疲れが、さらに強いものになる。
人の姿は無い。
鳥や、何かしらの動物の姿も無い。
ここには何もいない。
無人島?
そんな言葉が思い浮かんで、そのまま別のなにも想起させずに、ぼんやりと広がる原野を眺めた。
そうしていても、日は暮れていく。
こんなところで野宿?
大分、日が傾いたところで、それだけを思い、私はのろのろと立ち上がった。
こうしていても、誰も助けてくれない。
なにしろ誰もいないのだから。
不意に、誰かの表情が頭をよぎった。
不機嫌そうな口元が。
考えようとすると、また頭が痛む。
誰かの不機嫌そうな気配だけを残して、あっさりとその表情は脳裏から消え去った。
「なんでだよ。なんで」
さまようように歩き続ける間にも、空転する思考は呟きになって漏れ続けていく。
なんで?
明らかに人が住んでいる気配が、生活があるような光景がちらりとも見えない。
何かがあったような気がした。
何が?
分からない。
まとまらない思考を表すように、足取りはふらつき、時々転んだ。
そうしてさまよい続けて、やっと見つける事ができた。
人工物らしきそれを。
農道を思わせるような砂利道。
それがまっすぐに左から右に遠く伸びている。
既に疲れ切っていた。
喉のかわきはひどく、かすかに痛みすら覚えている。
空腹感はだいぶ薄れていた。
そのかわりに疲労感がとてつもなく大きくなっている。
それでも歩いた。
訳が分からなくとも。
なんでこんなことになっているのか、それを思い出せなくとも。
気が付く前に何があったのか。
それを考えようとすると、決まって頭が痛む。
もう何度も確認して、そこに傷が無いのは確かだ。
条件反射的に痛むそれに、やがて考えるのも面倒になってただただ歩いた。
そうして、日が沈み、それでも何かを目指して月のない満天の星空のもとを歩き続けた。
それは歩くというよりは、なんとか足をひきずりながらの前進。
大小さまざまな砂利を撒いただけの粗末な道に何度もつまずき、実際に何度か転んだ。
そのまま寝てしまえ。
倒れるたびに、そんな自分の声を聞いた気がした。
実際に、そのまま気を失っていたのかもしれない。
意識が何度も遠くなった。
顔に突き刺さるように当たる石の冷たさに、体に当たる砂利の不快さに仕方無く起き上がる。
時折、なにかないか、そこに町の明かりが見えたりはしないか、そう思って辺りを見渡した。
見渡し、何も無い事を確認するたびに、ひどい孤独感と虚しさに襲われる。
何も無い。
それをただ確認するためだけに見渡すのも嫌になって、最後はただただ進み続けた。
道がある以上、その先には何かがあるはず。
そんなわずかな期待だけを頼りに進み続けた。
夜が明ける。
遠く見える山の稜線が明るくなっていっていくので、それが分かる。
相変わらずの砂利道と広がる原野。
その先にやっと人工物が、山から切り出してきたままのような木を組んで作られた柵と、その上にわずかに見える木の板の屋根とが見えた時、思わず私は泣いていた。




