2.3 絶対零度の重圧と、時計仕掛けの裁判官
古い教会の扉をギギギ……と押し開けた瞬間、ヒカリは息を呑んだ。
そこに立っていたのは、全身がゴツゴツとした黒い岩と、鋭く尖った永久氷河で構成された、見上げるほど巨大な怪物だった。その体からは、「正しく弾かなきゃダメだ」「失敗したら許さない」という、息が詰まるような重圧と極寒の冷気が嵐のように吹き荒れている。
「キャッ……!? なに……この冷たさ……!」
ヒカリの隣で、バルタザールが鋭い目を向けた。
「不協和音の魔物『ガチガチ・ゴーレム』じゃ! 奴の正体はな、ヒカリちゃん……かつてこの世界で『完璧な演奏』を求められ、心を壊してしまった音楽家たちの『間違えることへの恐怖と絶望』が固まって生まれた悲しき化身なのじゃよ!」
『……オトヲ……マチガエルナ……。一音タリトモ……狂ウコトハ……許サナイ……!』
ゴーレムが地響きのような声を上げると、その肩から小さな影が飛び出した。
金属の冷たい体を持つ小鬼——『時刻の精霊・チクタク(メトロノーム)』だ。チクタクはゴーレムの配下として虚空に浮かび上がると、冷酷な赤い目を光らせた。
「カッ! カッ! カッ! カッ!」
「うあっ……!」
その規則的で無機質な音が教会の壁に反響した瞬間、ヒカリの心臓が早鐘のように鳴り始めた。レッスン室でいつもヒカリを追い詰めていた、あの冷たい機械の音。チクタクはヒカリを監視する「裁判官」として、少しのズレも許さない狂気のリズムを刻み始める。
「さあヒカリちゃん、恐れるな! わしに合わせなされ!」
バルタザールが『きらきら星』の原曲の重厚な和音を鳴らす。ヒカリも必死に弓を構え、透明な『ラ・ラ・ミ・ミ』の旋律を放とうとした。
しかし——。
「ズレテイル!! 遅イ!!」
チクタクが金切り声を上げると同時に、ゴーレムが巨大な氷の拳を振り下ろした。
「きゃあああっ!?」
ドゴォォォン!! という轟音と共に教会の床が砕け散り、吹き飛んだ氷の破片がヒカリの頬をかすめる。恐怖で腕が硬直したヒカリの弓からは、ギギッという悲鳴のような不協和音が漏れた。
「ヒカリ! 音楽の魔法、『変奏曲』で対抗するのです!」
白猫アルコが空中に飛び出し、銀の指揮棒を振るう。
「指揮者の教え、A の変奏——『星の瞬き(スパーキング・ボウ)』! 弓の中央の上部を使い、【タタタタタッタ】と軽く刻むのです!」
ヒカリは震える右手で、アルコの指示通りに弓を動かそうとした。
——タタタ……タ……ギッ!
『……恐怖ニ……縛ラレロ……! 完璧ナ機械ニ……ナレ……!!』
ゴーレムの咆哮と共に、圧倒的な冷気がヒカリの手元を襲う。指先が凍つき、感覚が消えていく。チクタクの「カッカッカッ」という音が脳内に直接響き渡り、ヒカリはパニックに陥った。
(どうしよう、リズムがずれてる! 早く、早く合わせなきゃ……間違えたら、怒られる……!)
焦れば焦るほど体はガチガチになり、生きた音楽は死に絶えていく。
ゴーレムが両腕をクロスさせ、絶対零度の吹雪『メテオ・ブリザード』を放った。バルタザールが必死に低音のシールドを展開するが、ヒカリの音が死んでいるため、共鳴の魔法陣を展開できない。
「くっ……! ヒカリちゃん、音を……君の音を響かせるのじゃ!」
「無理だよ……! メトロノームの音が怖くて、息が……息ができない……っ!」
吹雪の直撃を受け、ヒカリは床に叩きつけられた。手からバイオリンが滑り落ちる。
見下ろすゴーレムの目は、冷酷な吹雪そのものだった。ヒカリは絶望に飲み込まれ、床にへたり込んだまま動けなくなってしまった。




