s1 空白の旋律(せんりつ) 小さなSOS
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スマートフォンが震え、画面には『バイオリン教室・高橋先生』の文字が光っていた。時計の針は午後2時を少し回ったところ。琴葉は、クリスマスの夕食の準備をしていた手を止め、通話ボタンを押した。
「はい、星野光音の母です。いつもお世話になっております」
『あ、星野さん。高橋です。あの……今日はクリスマス会前の特別な個人レッスンだったんですが、光音ちゃんがまだいらっしゃらなくて。どうしましたか? 体調でも崩されましたか?』
高橋先生の遠慮がちな、しかし困惑を含んだ声に、琴葉の心臓がドクンと跳ねた。
「え……? 光音は、まだそちらに着いていませんか? 学校のあと、そのまま先生の教室に向かうはずだったんですが……」
『ええ、それがまだ……。少し遅れているだけかと思ったんですが、連絡もないものですから』
「申し訳ありません! すぐに本人に確認して、折り返しご連絡します!」
電話を切った琴葉は、震える指で光音のスマートフォンに発信した。しかし、無機質な電子音が響くばかりで、一向に繋がる気配はない。
(どういうこと? まさか、事故……?)
不安が胸を締め付ける中、不意に昨晩の光音の姿が脳裏をよぎった。
『お母さん……あのね、私、明日のレッスン……』
うつむき加減でモジモジと話しかけてきた娘。その小さな手は、スカートの裾をぎゅっと握りしめていた。
『なんだか、行きたくないな……怖い、というか……』
『怖いって何が? もうすぐクリスマス会でしょ? 今が一番楽しい時期じゃない。高橋先生も特別に時間を割いてくださってるんだから、そんなワガママ言わないの。今まで十分やってきたから、不安なら帰ってから少し練習すれば大丈夫でしょ?』
仕事と家事の忙しさにかまけて、琴葉は光音の言葉を遮り、正論で打ち消してしまった。ヒカリはそれ以上何も言わず、ただ力なく「……うん」とだけ頷いた。
(あの時、あの子は私に助けを求めていたの?)
後悔が押し寄せる。しかし、今は自分を責めている場合ではない。琴葉は深呼吸をし、急いでヒカリの通う小学校へと電話をかけた。
「はい、南小学校です」
「星野光音の母です。娘がまだバイオリン教室に到着していないようで……学校にはまだ残っていますでしょうか?」
電話口に出た担任の佐藤先生は、驚いたような声を出した。
『えっ? 今日は午前中授業だったので、生徒はすでにお昼頃には下校していますよ。星野さんは……確か、放課後に少し音楽室で練習していくと言っていましたが……』
「音楽室、ですか? 先生、お願いです、校内を探していただけないでしょうか!」
『わ、わかりました! すぐに他の教員とも手分けして確認します。折り返しお電話しますので、少しお待ちください』
20分後、待ちわびていた着信音が静まり返った部屋に響き渡った。震える手でスマートフォンを耳にあてると、佐藤先生の切迫した声が飛び込んできた。
「お母さん、申し訳ありません。音楽室はもちろん、校内をくまなく探しましたが、星野さんの姿はありませんでした……。ただ、ランドセルだけが音楽室に残されており、こちらで預かっております」
一息つく間もなく、先生の声色がわずかに濁った。
「外へ出た目撃情報はなく、窓が開いて冷たい風が入っていたのが気にかかる程度です。防犯カメラは時間がかかるため確認次第連絡します。学校でも対策を検討しますので、もう少しお待ちください」
学校にもいない。琴葉の顔から血の気が引いていく。
すがるよう思いで、琴葉は光音と一番仲が良い親友の美緒ちゃんのお母さんに電話をかけた。
「美緒、電話を代わって」
「あ、光音ちゃんのお母さん? 光音ちゃんなら、学校が終わったあと「音楽室寄ってから行く」って別れたけど……。そういえば、今日はずっと上の空というか、ちょっと元気がなかったかな。でも、それくらいですよ?」
美緒をちゃんを通して聞いた言葉は、琴葉の不安をさらに増幅させただけだった。
(元気がない……やっぱり、昨日の私の言葉が原因? それとも、何か事件に巻き込まれたの?)
どこを探せばいいのか、誰に頼ればいいのか。警察に連絡するべきか、それとももう少し待つべきか。ぐるぐると回る思考の中で、琴葉はリビングのソファに崩れ落ちた。
「神様……お願いです。あの子をお守りください。無事に帰して……!」
両手を組み合わせ、震える声で祈る。しかし、どれだけ待っても、玄関のドアが開く音は聞こえない。
時間が経つにつれ、琴葉の中で不安は徐々(じょじょ)に「苛立ち」へと変わっていった。
(どうして連絡一つ寄越さないの? 私がこんなに心配しているのに。バイオリンだって、あの子がやりたいって言ったから高いお金を出して……)
そこまで考えた時、琴葉の脳裏に異物感、鍵盤を叩く異音がフラッシュバックした。
『琴葉! 背筋を伸ばしなさい! 何度言ったらわかるの!』
ピシャリ! と、冷たい定規が小さな自分の背中を打つ。厳格だったピアノの先生の声。そして、その後ろで冷ややかに腕を組んで見ている、自分の母親の眼差し。
『あなたのためを思って言っているのよ。ここで逃げたら、一生逃げる人間になるわよ』
母の言葉は呪いのように琴葉を縛り付けた。音楽はいつしか「喜び」から「苦痛」へと変わり、5年生になる前には時々、ピアノの蓋を開けることすらできなくなっていた。
琴葉はハッとして、自分の両手を見つめた。
(私……あの時の母と、同じことを言っていなかった?)
『ワガママ言わないの』
『今が一番大切な時期でしょ』
光音の怯えたような顔。帰らないという事実。光音はバイオリンから、いや、「私」から逃げたかったのではないか。
「私が……あの子を縛り付けていたの……?」
静まり返ったリビングに、琴葉の小さな呟きが落ちる。自分が娘の音楽への純粋な想いを歪め、追い詰めていたのかもしれないという最初の気づきが、冷たい刃のように琴葉の胸を深くえぐった。
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