1.3 心音(トニカ)を探して
アルコは雪の広場で、音紡ぎの魔法をヒカリに授けます。
「アルコ……わたし、さっき『ラ』の音を鳴らしたとき、なんだか胸の奥がフッと軽くなった気がしたの。でも……バイオリンを弾く時って、いつも『弓をまっすぐ!』とか『音程が外れたよ!』って言われてばかりで、息が詰まりそうになっちゃうんだ」
ヒカリがぽつりとこぼすと、白猫のアルコはヒゲを柔らかく揺らし、優しく目を細めました。胸元の銀の指揮棒をそっと収めると、淡いパステルブルーの雪の机の上にちょこんと座り込みます。
「ヒカリ。形を整えることも大切ですが、このノエル王国に伝わる『音紡ぎの第一律』を教えましょう。これを知れば、あなたのバイオリンはもっと自由になりますよ」
「音紡ぎの……第一律……?」
「ええ。バイオリンの発祥地である遙か西の地では、音楽のすべての出発点となる中心の音のことを『トニカ(Tonica)』と呼びます。旋律がどんなに遠くへ旅をしても、最終的に必ず帰っていく『音楽の我が家』であり、揺るぎない曲の重心のことです」
アルコは肉球のある小さな前脚を、ヒカリの胸のあたりにそっとかざしました。
「そして、はるか東の古い国では、このトニカのことを、人々は『心音』と呼びました。……胸に手を当てたときに聞こえるドクンドクンという鼓動ではありませんよ。もっと深い場所——あなたの魂の奥底で、生まれたときからずっと鳴り続けている、ヒカリだけの生命の旋律のことです」
「わたしだけの……心音……」
「そうです。優しい人には柔らかな音があり、勇敢な人には力強い響きがある。人は誰しも、自分だけの『トニカ=心音』を持って生まれてくるのです」
その言葉を聞いて、ヒカリの脳裏にふと、元の世界での記憶が蘇りました。
お母さんたちと一緒に、誕生日会などで何度か行ったカラオケボックスでの光景です。小学生の間でも人気の遊びで、薄暗い部屋の中で回るミラーボールの七色の光や、甘いジュースとフライドポテトの匂い、そしてふかふかの長いソファの感触を、今でもはっきりと覚えています。
そこでいつも、ひときわ上手に歌っていたのが親友の結衣でした。揺れるポニーテールと、少し大人びた黒い縁のメガネがよく似合う結衣は、いつも自分の声に合わせて伴奏の高さを変える『キーチェンジ』を使いこなし、気持ちよさそうに歌っていたのです。
『いい、ヒカリ? 曲を最後までよーく聴いてみて。一番最後に響く音が、その曲の「キー」なんだよ。私はね、元の曲の最後の音から「プラス2」とか「マイナス1」とかにして、自分が一番綺麗に歌えるキーに変えてるの!』
マイクを握りしめ、得意げに笑っていた結衣の言葉が、いま目の前にいるアルコの話と不思議なほど重なります。
(そっか……トニカって、結衣ちゃんが言っていた『キー』のことなんだ。曲が最後に帰っていく音で、自分に一番合った響き……)
ヒカリはハッと顔を上げました。
「アルコ、トニカって、カラオケでいう『キー』みたいなものなんだね。自分が一番綺麗に響く、私だけの基準の音……!」
「おや、良いことに気がつきましたね。その通りです」
アルコはヒカリの言葉に、嬉しそうに頷きました。
「さあ、ヒカリ。一つ教えてくれますか?」
アルコは指揮棒をすっと立て、エメラルド色の瞳をキラリと輝かせました。
「今、あなたの胸の奥で温まっている『心音(トニカ)』は、どんな気持ちですか? 世界中に届くような元気いっぱいの光? それとも、誰かに寄り添う優しくて静かな光?」
ヒカリは自分のバイオリンを見つめ、あごあてにそっと頬を寄せました。小さな胸の奥で、トックン、と温かい波紋が広がるのを感じます。
「わたしね……本当は……!」
「ふふ、言葉にしなくても大丈夫。わかるよ。その答えを、そのまま弓に乗せてごらんなさい。さあ、ノエル王国を救う旅立ちの音を、私に聴かせてくれますか?」




