8.2 新しい光へのアンサブルへ
市民会館・小ホールの重い防音扉を押し開けると、ちょうどプログラム第一部が終わり、十五分間のロビー休憩に滑り込むことができた。奇跡的に間に合ったのだ。
「光音ちゃん……! 琴葉さん!」
ロビーで待っていたのは、心配そうにウロウロしていた担任の佐藤先生、親友の美緒ちゃん、クラスメイトの結衣ちゃん、そして教室の高橋先生だった。
「光音! 良かった……! 本当に心配したんだから!」
美緒ちゃんが涙目で駆け寄り、光音の冷えた手をギュッと握りしめた。手袋越しにも伝わる親友の温もりに、光音の心がほっと和らぐ。
「光音ちゃん、無事だったんだね! 音の魔法が、ちゃんとお母さんに届いたんだね!」
魔法が大好きな結衣ちゃんが、すべてを見通していたかのように嬉しそうに微笑んだ。
光音は高橋先生の前に進み出ると、深々と頭を下げた。
「高橋先生……連絡もせずに遅れてしまって、本当にごめんなさい!」
高橋先生は目元を少し緩め、優しく光音の肩をポンポンと叩いた。
「いいのよ、光音ちゃん。無状態でいてくれたなら、それだけで十分です。今日のプログラム、一番最後の大トリに、あなたとお母様の演奏枠を残してありますよ」
安堵したのも束の間、控え室に入ると、急に光音の脚がブルブルと震え始めた。
(本当に私、これから大勢の人たちの前で弾けるのかな……? もし失敗したら……)
異世界での激闘を乗り越えたとはいえ、現実のステージへの恐怖が波のように押し寄せてきたのだ。パイプ椅子の冷たさに身体を硬くする光音。
その隣に、結衣ちゃんがそっと腰かけた。
「光音ちゃん、大丈夫だよ。光音ちゃんとお母さんの演奏はね、絶対に素晴らしいものになるよ。だって、二人の演奏は感覚だけじゃなくて、理論的にも完璧に響き合うようにできているんだもの」
「理論的……?」
「うん! それにね、実はお父さんが『魔法の演出』を準備してくれているんだよ」
結衣ちゃんが秘密を明かすように光音の耳元で囁やき、そっとお父さんの修平を指差した。
「えっ……お父さんが、魔法使い!?」
光音が目を丸くすると、腕組みをして聞いていた修平が照れくさそうに苦笑いしながら口を開いた。修平は普段から脳科学や音響学の研究レポートを読むのが好きな、少し理屈っぽいお父さんだ。
「ははは、結衣ちゃんは上手いことを言うなぁ。でも光音、あながち嘘じゃないんだぞ。最新の脳科学の研究によるとね、人間の脳が最も深く感動するのは、五感の中でもダントツで『聴覚』——つまり耳からの情報なんだ。
考えてごらん。コンサート会場では音楽の美しさに涙を流したりする人がいるだろう? でも、静かな美術館で絵画を見て倒れる人はめったにいないよね。聴覚は脳の感情をつかさどる『大脳辺縁系』にダイレクトに繋がっているからなんだよ」
修平は光音の前にかがみ込み、優しく目線を合わせ魔法使いの杖のようにパソコンを取り出した。
「ぼくたち人間はね、まず耳から入る『音』を一次理解として脳で受け止める。そして、次にその演奏者の表情や全体の『光』の構成を視覚で捉えて二次理解とするんだ。
光音とお母さんの音が一つに重なり合った時、それはすでに素晴らしい音楽の魔法だ。そこに、お父さんがプログラムした『光の演出』が、二人の音の周波数に完全に連動して空間を彩るように計算してある。音という一次理解が、光という二次理解へ昇華する。音と光が理論的にも完全にひとつになった時、人間の脳は最大の感動……つまり『魔法』にかかるんだよ」
「音と……光……」
「そう。光音の名前と同じだよ。だから高橋先生に相談して、今日の演奏の最後にぼくからの特別な演出をお願いしてあるんだ。……光音、ステージの最後、照明が暗くなったら、心と音をお母さんのピアノとひとつにしてバイオリンを弾いてごらん。言葉はいらない。お前の『光の音』を響かせるんだ」




