8.1 恩寵の光と、帰還
視界が眩い白に染り、温かな光の渦が光音を包み込んで跳ね上がった。
ハッと目を開けると、そこは慣れ親しんだ我が家の小さな庭だった。
12月の夕暮れ時の冷たい風が頬を撫で、どこかで濡れた土と落ち葉の匂いが漂っている。肌に触れる空気の冷たさ、遠くで走る電車の重低音——異世界の王宮、森の木々の匂いは綺麗に消え去り、現実の世界の匂いと音が光音を優しく満たしていった。
「……ただいま、お母さん!」
開け放たれていた一階の窓。その奥には、泣きじゃくりながらピアノの鍵盤に顔を埋めて突っ伏していた母・琴葉の姿があった。
「光音……! 光音なのね……っ!」
琴葉は吸い寄せられるように窓枠に駆け寄り、光音の小さな身体を強く、強く抱きしめた。
髪から香る柔らかなフローラルシャンプーの匂い。琴葉の体温から伝わる生き生きとした熱。そして、頬を濡らす涙の温もりと塩っぱさが、光音の皮膚を通してダイレクトに伝わってくる。
「ごめんね、光音……! お母さん、自分の理想ばかりあなたに押し付けて、苦しめて……本当にごめんなさい!」
「私こそごめんなさい! お母さんに素直になれなくて、勝手に逃げ出して……。でもね、お母さん、ありがとう。遠い世界にもね、お母さんのピアノの音がちゃんと届いたんだよ!」
二人は互いの肩を濡らしながら、「ごめんなさい」と「ありがとう」を何度も交わし合った。
長年二人を不器用に縛り付けていた透明な鎖が、カチャンと音を立てて完全に解け落ちていく。
その時、琴葉はふと、遠い昔の記憶を思い出していた。
琴葉自身も幼い頃、厳格だった自分の母親から「もっと正確に」「もっと完璧に」とピアノの練習を強制され、音楽を楽しむ心を失いかけた過去があったのだ。琴葉の母もまた、娘を想うあまり不器用な愛し方しかできなかった。
(ああ……お母さんも、こんな気持ちで私を見ていたのかもしれない……)
琴葉は胸の奥で、いまは亡き自分の母親の愛と痛みを初めて真に理解し、長年の心の葛藤と静かに和解していったのだった。
琴葉は光音の冷えた両手を優しく包み込み、そっと微笑みかけた。
「光音。もう、無理してクリスマス発表会に出なくてもいいのよ。お母さん、あなたが無事で、こうして笑ってくれているだけで十分だから」
その温かい言葉に、光音は少しだけ俯いた。
お母さんは許してくれた。このまま暖かい家の中で、ゆっくり休むこともできる。でも——光音の脳裏に、異世界でみんなと創り上げたあの奇跡のような『聖夜の光響祭』の景色が鮮明に蘇ってきた。
自分の音が、傷ついた人々を癒し、笑顔を取り戻したあの熱気と感動。
(私、逃げない。私の音を、大好きなみんなに届けたい!)
光音は顔を上げ、しっかりと琴葉の目を見つめ返した。
「お母さん、私、出たい。高橋先生や心配してくれたみんなに、感謝の気持ちを伝えたいの。それに……お母さんと一緒に、最高の音楽を弾きたい!」
光音の真っ直ぐな瞳の輝きに、琴葉はハッと息を呑み、やがて大粒の涙をこぼしながら力強く頷いた。
ふと柱時計を見ると、針は午後5時半を指していた。
時間は、光音が『時を駆け抜ける(かけぬける)音のトンネル』へと迷い込んだあの夕方のまま、ほとんど止まっていたのだ。
「大変、光音! バイオリン教室のクリスマス発表会、もう休憩時間に入っているわ!」
「車を出すぞ!」
会社から駆けつけていた父親の修平が、車のキーを握りしめて立ち上がった。
夕闇が迫る街へ飛び出し、愛車のエンジンを高らかに吹かす。
「ちょっと、あなた! 気持ちは分かるけど、焦って事故を起こしたら大変よ! 安全運転で急いで!」
「わかってる! でも、絶対に間に合わせるぞ!」
車内には心地よい緊張感と、それ以上の温かな絆が満ちていた。助手席で光音は、しっかりとバイオリンケースを抱きしめていた。もう、この楽器は恐怖の定規ではない。自分と異世界の仲間たち、そして大切な人を繋ぐ、かけがえのない相棒だった。




