s6 光と、音
静まり返ったリビングで、父である修平はひとり、ノートパソコンの画面と向き合っていた。
「修平さん、お疲れ様。少し休んだら?」
ふわりとコーヒーの良い香りが漂い、妻の琴葉がテーブルに温かいマグカップをことりと置いた。琴葉はすでに、ステージに立つための淡いブルーのドレスに着替えている。
「ありがとう。……よし、光の同期システムの最終チェック、完了だ」
エンターキーを軽く叩き、修平は深く息を吐き出して椅子に背中を預けた。
画面上で複雑に絡み合っているのは、光の粒子や色彩が自動で変化する特別なプログラムだ。舞台全体を大きなキャンバスに見立てて、景色を光で描き出す——今日のコンサートに仕掛ける演出である。
「ヒカリ……まだ戻ってこないわね」
琴葉が窓の外の冬空を見つめ、少しだけ不安そうに呟いた。
「大丈夫さ。あいつは必ず、本番までに戻ってくる。俺たちは俺たちで、あの子を迎える最高の準備をしておこう」
修平は優しく微笑み、琴葉の冷えかけた手をそっと握った。
普段は研究所での仕事に追われ、深夜に帰宅しては朝早くに出勤する毎日。不器用な修平は、プレッシャーと戦いながらバイオリンの練習をする娘に、気の利いた言葉一つかけてやれなかった。
(親として、俺にできることは何だろうか)
そう考えたのが一週間前。修平は特殊な投光機を並べ、壁に光を映し出す実験を繰り返してきたのだ。
「あのね、琴葉」
修平はコーヒーを一口飲み、ぽつりと言葉を紡いだ。
「人間の心って、不思議な魔法みたいにできているんだよ。音楽——つまり『音』は、耳から入って、心の一番深いところにある感情を直接揺さぶる。一瞬で人を喜ばせたり、悲しませたりできる力があるんだ」
「ええ……本当にそうね」
「でもね、それだけじゃない。そこに『光』や美しい景色が重なると、光はその感情に『物語』を与えてくれる。耳に届く音と、目に見える光。そのふたつが寸分の狂いもなくぴったりと結びついた時、人の心には言葉にならないほどの深い感動や、誰かを無条件に愛おしく思う気持ちが溢れ出すようにできているんだよ。脳科学の研究でもね、それが人間の持つ最高の奇跡だって言われているんだ」
それは、修平が仕事で読んできた難しい論文の知識を、彼なりの不器用な優しさで噛み砕いた言葉だった。
「……光と、音」
琴葉がハッとしたように目を丸くし、やがて愛おしそうに微笑んだ。
「そうさ。十一年前の冬の夜、窓の外に星が降っていて、遠くから教会の鐘の音が聞こえただろう? あの時、二人で決めた名前だ」
——『光音』。
「ヒカリは今日まで、一人で立派に自分の『音』を磨いてきた。だから最後に、お父さんが少しだけ『光』の魔法を足してやるんだ。あいつの音が、会場にいるすべての人の心に届くようにね」
修平がパソコンを閉じ、丁寧にバッグへしまうと、壁掛け時計が静かに時を刻む音が聞こえた。
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