6.4 古代の音響心理学 インテンショナリティの極意
「待って、ヒカリちゃん。このレシピには、さらに重要な奥義として『古代の音響心理学』の論文が挟まっているわ。……題して、【志向性(インテンショナリティ)の極意】よ」
「インテンショナリティ……?」
「そう。音を奇跡に変えるための『心の矢印』のこと」
ルノアは小さな指で空中に矢印を描きながら説明を始めた。
「古代の宮廷音楽会ではね、司会者や奏者が、演奏の前に最近の王宮の音楽団の出来事を話したり、その曲がどうやって生まれたのかを語る『アイスブレーク』の時間を持っていたと書かれているわ。どうしてだと思う?」
「えっと……お客さんを退屈させないため?」
「それもあるけれど、一番の理由は『観客の意識を曲に向かわせるため』よ。どんなにザワザワと騒がしい市場の真ん中でも、大好きなお母さんが自分の名前を呼ぶ声なら、スッと耳に入ってくるでしょう?」
「あっ……うん、わかる。探さなくても聞こえる気がする」
「それは、ヒカリちゃんの心が『お母さんの声を受け取ろう』とチューニングされているから。それが観客の【志向性】を高めるということなの。曲の背景を知ることで、聴く者の心は魔法を受け入れる準備を整えるのよ」
ルノアは羊皮紙の続きを追いながら、今度は真剣な瞳でヒカリを見つめた。
「そしてね、もっと大事なのは『奏者自身の志向性』。——つまり、『最高の演奏をする【つもり】』で音を紡ぐこと。王都の騎士だって、最初から『剣術大会で優勝するつもり』で厳しい訓練をしなければ、決して優勝することなんてないでしょう? それは『夢は必ず実現する』という信念そのもの。強い【つもり】が、音の魔法を現実に引き寄せるのよ」
「最高の演奏をする、つもり……」
ヒカリは自分の両手を見つめ、ぎゅっと握りしめた。
「でも、気をつけて」
ルノアは声のトーンを落とし、古文書の最後の一文を指差した。
くに
「ここに『幻影の走者の教訓』という古い事例が載ってるわ。——【ゴールが見えた瞬間に、魔法の糸は切れる】って」
「えっ? ゴールを見ちゃいけないの?」
「ゴールを見るだけではダメなの。『ああ、もうすぐ曲が終わる』『上手く弾ききれそうだ』……そう思った瞬間に、張り詰めていた心の糸がふっと緩んで、魔法は霧散してしまう。見えたゴールであっても、まるで『まだ見えないもの』であるかのように、その先へと走り続ける極意が必要だと書かれているわ」
ヒカリはハッとした。
自分がかつて練習していた時のことだ。「あともう少しで完璧だ、最後の一小節だ!」と思った瞬間に限って、指がもつれて失敗してしまったことが何度もあった。
そして同時に、昨日の夕暮れに響いた、あのあたたかいピアノの音色を思い出した。
お母さんの音は、「曲を弾き終えること」をゴールになんてしていなかった。ただひたすらに、遠く離れたヒカリの心に向かって、曲が終わったずっと先の未来へも愛を届け(とど)ようと、永遠に走り続けるような深い祈りの音だったのだ。
「そうか……。ただ楽譜通りに弾き終えるのが、ゴールじゃないんだ」
体系立てられた古代の図書館の知識が、ヒカリの中で昨日のお母さんの音の体験と、見事に一つに結びついた。
「私の『アメイジング・グレイス』は、王様の心を癒し、その先にあるこの世界の明るい未来にまで響かせる【つもり】で弾かなくちゃいけない。曲の終わりは、始まりに過ぎないんだ……!」
その真理に辿り着いたヒカリの瞳は、古代の魔法陣の光を反射して、これまでにないほど強く、そして深く輝き始めていた。
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