6.1 響きの文庫と黒き竜の試練
トナカイのルードが空を蹴るたび、シャン、シャンと涼やかな鈴の音と、蹄が星屑を弾くカリン、カリンという硬質な音が夜空に響き渡りました。
荒野の霊たちが形作ったソリ『光の星橇』は、重力から解き放たれたように雲海の上を滑るように進んでいきます。
頬を刺す上空の風はピリッとするほど冷たく、けれど同時に、綿あめのような甘い星の匂いが鼻先をかすめていきました。眼下にはエメラルド色に輝くオーロラの川がうねり、ヒカリはその光の川を遡るようにして、次元の狭間を駆け抜けてきたのです。
やがて雲海が大きく晴れ、ルードがゆっくりとソリの高度を下げると——ヒカリは思わず息を呑みました。
目の前に聳え立っていたのは、天を突くほど巨大な、蒼い石造りの大建築でした。
世界中のあらゆる知識、あらゆる歴史、そして次元を超えた「世界中のすべての本と楽譜」が眠ると言われる、知識の聖地——『王立図書館』。
別名【響きの文庫】とも呼ばれるこの場所は、ただ本が保管されているだけの静かな場所ではありません。外壁の隙間からは、何万冊もの本たちがひそひそと囁き合う声や、古のオーケストラがチューニングをしているような微かなさざめきが、波のように寄せては返していました。
ソリから降り立ったヒカリの頬を、吹き抜ける風が優しく撫でていきます。
その風には、何百年も前に書かれた古書の焦げたインクの匂い、乾燥した羊皮紙のホコリっぽい匂い、そしてどこか懐かしい、現代の世界で聞いたようなピアノの旋律の余韻が甘く混ざり合っていました。
「ここが……王立図書館……『響きの文庫』!」
ヒカリは胸の前で、ぎゅっとバイオリンを抱きしめました。
隣には、翡翠色の目を輝かせる重厚なゴレム、紫の魔力をまとう氷の魔法使いノワール、太鼓を抱えたトリルといった頼しい異世界の仲間たちが立っています。先ほど、現代のお母さんから届いた温かい音が、今もヒカリの胸の奥でポカポカと輝き、彼女の背中を押していました。もう、怯えてうつむいていた昨日の自分ではありません。
だが、図書館の白銀に輝く巨大な二重扉の前へ足を踏み入れたその瞬間——。
ゴゴゴゴゴ……っ!
腹の底を揺らすような地響きとともに、空気が一変しました。
温かかった風が氷のように凍りつき、代わりに重厚な「鉄と硫黄の匂い」が鼻腔を激しく突きます。舌の上にまで焦げたような苦味が広がり、頭上から差していた陽光が完全に遮られました。
屋根の上に鎮座していた漆黒の巨躯が、バサァッ!と巨大な翼を広げ、地鳴りを立てて舞い降りてきたのです。
「——我が領域へ足を踏み入れる者よ」
空気を震わせる低い声が、直接脳内に響き渡りました。
そこにいたのは、夜の闇をそのまま切り取ったかのような、漆黒の分厚い鱗を纏う一匹の巨大な『黒龍オブシディアン』でした。
その瞳は黄金色に光り輝き、シューッと息を吐き出すたびに、熱い火の粉と焦げた薪のような煙がヒカリの肌をチリチリと刺します。黒龍オブシディアンは王立図書館の門番であり、真の求道者のみを入館させる強大な守護者でした。
巨大な影が見下ろす中、オブシディアンは鋭い眼光をヒカリに定めました。
「ここは、古今東西のあらゆる英知と、全次元の楽譜が眠る場所。生半可な者が足を踏み入れれば、その膨大な情報の波に呑まれ、自我を失うであろう」
龍の太く重厚な尻尾が地面を叩くと、バチバチと青い火花が散り、熱風がヒカリの髪を煽りました。
「少女よ、入館証はあるか? なければ資格を問う。問いに答えよ。……お前は何のために、世界中の楽譜を、その『音』を求めるのか? 誰のための音色を胸に抱いておる?」
完全な静寂が支配しました。龍の発する圧倒的な覇気に、仲間たちも息をのんで見守ります。
ヒカリは震えそうになる足を踏ん張り、背筋をピッと伸ばして黄金色の龍の瞳をまっすぐに見つめ返しました。手の中のバイオリンからは、母から届いた愛の波動が、微かな振動となって手のひらに伝わっています。
「私は……怖かったからです」
ヒカリの声は清らかで、冬の澄んだ空気の中にスッと真っ直ぐ通りました。
「間違えるのが怖くて、期待に応えられないのが怖くて、音楽から逃げ出しました。でも……分かったんです。音楽は、誰かと比べるためのものじゃないって。私は、自分の心を自由にするために弾きたい。そして、離れていても大好きな人に『私はここで笑っているよ』って届けるために……もっとたくさんの音を知りたいんです!」
真っ直ぐな想いをぶつけたヒカリ。
しかし——黒龍オブシディアンの反応は、氷のように冷酷なものでした。
「……下らぬ!」
オブシディアンの鼻息が突風となって吹き荒れ、ヒカリは思わず腕で顔を覆いました。
「己の自由? 母親への私信だと? そのような個人的でちっぽけな感情で、この宇宙の真理が詰まった聖域を汚そうというのか! 真の音楽とは、星々の運行を司り、神々に捧げる壮大な真理そのもの! 何度説明しようが、そのような軽い答えを持つ人間を入れるわけにはいかん。帰れ!」
「そんな……! 私、どうしても中に入りたいのに!」
何度食い下がっても、黒龍は頑として首を縦に振りません。
その時、横にいたゴレムの翡翠色の目がピカッと光り、口の中から大賢者バルダザールの通信音声が響き渡りました。
『オブシディアンよ、相変わらず頭が硬いのう。ほれ、わしの入館証じゃ。これでこの子らを通してやってはくれまいか』
ゴレムの口から、300年前の魔法が込められた古びたクリスタルの入館証がカラン、と吐き出されます。
しかし、黒龍は冷たく言い放ちました。
「大賢者バルダザール殿。しかし、その星結晶に刻まれた魔力紋は貴方のもの。血と魂の契約で結ばれた入館証は、いかなる理由があろうと他者への譲渡・貸与は禁じられております。ファンタジー世界のセキュリティを舐めないでいただきたい。ルールは絶対ですぞ」
「チッ、相変わらず融通の利かないトカゲですね!」
不意に、ヒカリの持っていたバイオリンの弓から、淡い光が溢れ出しました。弓に塗られていた魔法のアイテム『星晶の松脂』がチカチカと明滅し、そこから放たれた光の粒子が集まって、空中に一匹の白猫の立体映像を描き出しました。
リアルな実体を持たず、松脂の魔法から映像として顕現したかつての天才宮廷音楽家——アルコです。
「いいですか、オブシディアン」
映像のアルコは空中にふわりと浮かびながら、偉そうに前足を組みました。
「この王立図書館の『音楽部門』を創設したのは、この私、アルコなんですよ? 創設者のワタクシからの特別な助言です! どうかこの可愛い弟子を、創設者特権の顔パスで入れてやってくれませんかねぇ?」
映像のアルコがウインクをして頼み込みますが、オブシディアンの怒りはさらに燃え上がりました。
「ふざけるな、映像のアルコ殿! 私をスカウトし、この門番に据えたのはあなたたち創設メンバーではないか! その際、『己の魂に響く壮大な答えを持たぬ軽薄な人間は、たとえ神の使いであろうと絶対に入れるな』と厳命したのは貴公らであろうが! 己の定めたルールを『顔パス』などというふざけた言葉で自らねじ曲げるとは、言語道断!」
「うっ……昔の私が真面目すぎたニャ……」
アルコのホログラムはノイズを走らせながら耳をペタンと伏せ、バルダザールも『痛いところを突かれたのう……』と沈黙してしまいました。
最大の味方であるメンターたちでさえ、黒龍の「正論」の前には手も足も出ません。
(どうしよう……ここまで来たのに、図書館に入れないなんて……!)




