s5 小さな教会で聴いたある曲の旋律
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琴葉の脳裏に蘇ったのは、昔、旅先の小さな教会で聴いたある曲の旋律だった。
高い天井、ステンドグラスから差し込む七色の光の帯、パイプオルガンの地鳴りのような重低音と、空気全体が震える神秘的な余韻。そこで光音と聴いた讃美歌——『アメイジング・グレイス(驚くべき恵み)』。
この曲の作者であるジョン・ニュートンは、かつて惨虐な奴隷貿易に手を染め、人間としての道を外れた男だった。しかし、嵐の海で激しい死の恐怖に直面したとき、神の無償の愛(グレイス)に触れ、奇跡的に命を救われた。
『過ちを犯し、迷い子となっていた私を、神の慈しみ(恩寵)が救い出してくれた——』
過ちを犯したのは、自分も同じだった。
我が子を愛するあまり、自分のプライドでガチガチに縛りつけ、追いつめてしまった愚かな母親。けれど今ならわかる。人は過ちを自覚し、心を無にするとき、深い赦しと救いに包まれるのだと。この曲が何百万人もの心を揺さぶり続けてきたのは、完璧な人間の歌だからではない。深く傷つき、過ちを認めた人間が、ただ一筋の光(愛)に救われた感謝の叫びだからだ。
(光音……お母さんも、今、祈りを込めて歌うわ)
琴葉は静かに息を吐き出し、心を「無」にした。
評価されたいという欲も、失敗への恐れも、すべて削ぎ落とす。ただ、ヒカリへの愛と感謝だけを心に残して。鍵盤に音を置く。
ぽろん——。
一音目が鳴り響いた。
濁りのない、透き通った水滴のような音がリビングに広がる。
『荒野の果てに』、そして——。
『アメイジング・グレイス』の優しい旋律も、琴葉の指先から溢れ出していった。
右手の不器用さも、左手のもどかしさも消し去っていた。上手く弾こうとする「自我」を捨てたとき、音楽は言葉を超えた一つの「意思」となって空間を満たし始めたのだ。
鍵盤に撒いた松脂の粉が黄金色の光の粒子となって舞い上がり、部屋中に百合と星屑の甘い香りが満ちていく。旋律が高まり、琴葉の意識が「無」の領域へ深まると同時に、目の前の暗い空間が波打つ鏡のように揺らぎ始めた。
光のヴェールの向こう側に、広大な『異世界の風景』が映し出される奇跡が起きた。
そこは、巨木がそびえ立ち、空に二つの月が浮かぶ幻想的な森だった。
その中央で、ヒカリが立っていた。ヒカリは琴葉が買ってあげたヨーロッパ製のバイオリンを裸で抱え、見たこともない民族衣装を着た温かな眼差しの老人や、耳の尖った小さな仲間たちに囲まれていた。
ヒカリの表情には、あの怯えたような影は一切なかった。
弾けるような笑顔で、自由奔放にバイオリンを掻き鳴らし始めた。その音色は、次元の壁を越えて琴葉のピアノの音と溶け合い、違う曲なのに見事なアンサンブル(二重奏)を奏でていた。
(届いた……! 光音、あなたは今、こんなにも輝いているのね……!)
「琴葉! 一体どうしたんだ!?」
ドタバタと激しい足音が響き、リビングのドアが跳ね上がった。
心配して会社を早退してきた夫が、息を切らし、目を見開いて立ち尽していた。
夫の目にも見えていた。ピアノから立ち上る光の粒子と、星空の部屋を満たす幻想的な花の香り、そして空間に浮かび上がるヒカリの楽しそうな姿が。
琴葉は鍵盤からそっと手を離し、涙で濡れた顔で夫へ微笑みかけた。
「あなた、大丈夫よ……。光音はね、今、とても素敵な場所にいるの」
琴葉は震える夫の手を握りしめ、光の中に映る娘を指さした。
「あの子はね、自分の本当の音を探すために、魔法の世界へ旅立ったの。私たちは、警察を呼ぶ必要はないわ。ただ、わたしたちはこのピアノを通して、あの子がいつでも帰ってこられるように『愛の音』を響かせ続ければいいの」
光の中でヒカリがふと振り返り、琴葉と夫に向かって、嬉しそうにバイオリンの弓を大きく振った。
二つの世界を繋ぐ音律(ハーモニクス)の余韻が、夫婦の心を温かく満たしていった。
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