5.4 傷ついた魂の旋律と、赤き希望のソリ
ツーンと鼻をつく血とカビの匂いを見つめ、ヒカリはトリルからバイオリンを受け取り、そっと構え直しました。
「ここで傷ついて、光を失ってしまった荒野の戦士たち。お疲れ様でした。痛かったよね、苦しかったよね……あなたたちに、この歌を捧げます。聞いてください」
ヒカリは静かに弦を擦りました。敵を打ち倒すための暴力的な音ではありません。
この恐ろしい荒野の淀んだ空気、冷たい風、そして沼の底で眠る傷ついた魂たちに寄り添うための、優しく滑らかな、祈りのような旋律。
かつてお母さんが泣きながらヒカリの背中を撫でてくれた手のように、山奥の先生が教えてくれた「共存」の優しさのように、痛みを否定せず、すべてを包み込む旋律でした。
ポツン、ポツン。
血の残る沼から、小さな泡が浮かび上がりました。
「あ……小さなカビのかな? でも、音楽に合わせて耳を澄ませてくれているみたい」
ヒカリの温かい音色に合わせ、不気味だった泡が淡い水色、柔らかな緑、そして綺麗な赤色へと幻想的に輝き始めます。泥にまみれた大地から、蛍のような粒子が無数に舞い上がりました。
「おお……! これは戦士たちの霊だ。ヒカリの音が、彼らの無念を浄化し、寄り添っている……!」
アルコが感嘆の声をあげます。
光の粒子の中には、かつての激しい戦いで命を落とした古代の戦士たちの姿が浮かび上がりました。冷たい泥の中で槍に貫かれ、鎧を砕かれ、家族を残して無念の中で息絶えた男たち。ヒカリの奏でる滑らかなレガートの調べは、まるで温かな包帯のように彼らの魂のひどい傷を包み込み、どす黒い血を清らかな光へと変えていきます。
しかし、沼の底から浮かび上がってきたのは、戦士たちだけではありませんでした。
戦火で頼れる父親を奪われ、極貧の生活の中で重い皮膚炎にかかって亡くなった、小さな男の子や女の子たちの姿があったのです。
彼らの体は、かつてのヒカリと同じように赤く腫れ上がり、掻きむしった無数の傷から痛々しい血が滲んでいました。
『うつるから、あっちへ行けよ!』
『血だらけで気味が悪い! 近寄るな!』
栄養失調で痩せ細った体で、他の子供たちからの心無い偏見と嘲笑に晒された記憶。ただ痛くて、痒くて、お父さんに会いたくて……血だらけの指で冷たい夜を泣き明かした底なしの絶望。そのあまりの苦しさに、ヒカリの胸が締め付けられます。
(痛かったよね。痒くて、悲しくて、たまらなかったよね……!)
ヒカリは祈りを込めて、さらに優しく、傷ついた皮膚をそっと撫でるように弓を滑らせました。
静かで温かな癒しのメロディが、荒野に円を描くように広がっていきます。
すると、奇跡が起きました。音楽の波紋が子供たちを包み込むと、ボロボロだった彼らの肌が、まるで春の雪解けのようにスゥッと滑らかで健やかなものへと変わっていったのです。そして光の霊に変貌していきます。
痒みと痛みから解放された子供たちの霊は、戦士であるお父さんたちの大きな手にしっかりと抱きしめられ、嬉しそうに笑いました。
光の霊たちが幾重にも重なり合い、彼らの喜びのさざなみが、静かな癒しのコーラスとなって荒野に響き渡ります。
ゴレムが翡翠色の重厚な目を開き、その口から大賢者バルダザールの威厳ある声が静かに響きました。
『……見事じゃ。ルールを知り、型を守り、その上で“場と呼吸を合わせる”。自分の理想を押し付けるのではなく、そこにある痛みやカビとすら共存する。それができて初めて、本当の自由な音楽が手に入るのじゃ』
「見て、みんな!」
ノワールが空を指差しました。
浄化された霊たちの光の粒子が集まり、どす黒い荒野の奥へと一直線に伸びる、一本の幻想的な『光の道』を作り出していました。
そして、空へ昇っていく赤や金色の温かな光たちが、ヒカリたちの目の前でくるくると渦を巻き始めます。
光の糸が編み込まれるようにして形作られたのは、真紅のベルベットの座席と、黄金に輝く彫刻が施された、巨大で美しい『真っ赤なソリ』でした。霊たちの「ありがとう」という感謝の想いが、冷たい荒野を駆け抜けるための立派な乗り物へと姿を変えたのです。
「こいつはすげぇや……!」
トリルが目を丸くする前で、トナカイのルードが誇らしげに前に進み出ました。ソリから伸びた光の手綱が、ルードの立派な角と胸にスッと優しく巻き付きます。
まだ見ぬ『王立図書館』は、この荒野の遥か彼方。子供の短い足で歩けば、どれだけ時間がかかるかわからない永遠にも思える距離です。しかし、この光の道と霊たちのソリがあれば、その長い距離は一気に短縮されます。
(これなら……本当のクリスマスまでに、図書館に間に合うかもしれない!)
「行こう!」
ヒカリは膝の泥を払い、力強く立ち上がりました。その瞳には、もう焦りも迷いもありません。
「音楽は自由だ。次は絶対に、カデンツァのあの冷たい時計の針を越えてみせる!」
仲間たちの温かい絆と、高橋先生やお母さん、そしてアトピーの先生の教えを胸に。ヒカリたちは、荒野に架かった光の道へと確かな一歩を踏み出しました。
ヒカリがバイオリンを抱えてソリに乗り込むと、ルードが前足を高く跳ね上げ、銀色の鈴をシャンッ!と高らかに鳴らしました。
「さあ、勇者の卵たち! 悲しみを越えて生まれた奇跡の『光の星橇』にご案内だ! 王立図書館への特急便、振り落とされないようにしっかりつかまってな! いざ、光の差す方へ……フルスピードでGo!!」
ルードの力強い掛け声とともに、真っ赤なソリは星屑を散らしながら、希望の道へと勢いよく飛び出していきました。




