5.3 アトピーの血と、荒野の血
その時、荒野に漂う鉄と血の匂い、そして鼻を刺す湿度とカビの異臭が、ヒカリの心の一番深い場所にあった「遠い日の記憶」を呼び覚ましました。
幼い頃のヒカリは、ひどいアトピー性皮膚炎に苦しんでいました。
特に夜になると、全身を炎で炙られるような耐えがたい痒みが襲ってくるのです。暗い部屋の中で、幼いヒカリは声を殺して自分の皮膚をガリガリと掻きむしり、朝になるとシーツは血と体液で真っ赤に染まっていました。肌はかさぶたでボロボロになり、関節を伸ばすだけで皮膚が裂けて血が滲む。痛くて、痒くて、眠れない。友達だった子も離れていきました。どうして自分だけこんな目に遭うんだろうと、世界中を憎みたくなるような夜が何度も続きました。
そんな夜、いつだって寄り添ってくれたのはお母さんでした。
「痛いの痛いの、飛んでいけ……ヒカリ、代わってあげられなくてごめんね……」
掻き壊した血だらけのヒカリの体を抱きしめ、お母さんは夜通しヒカリの背中を優しく撫でながら、静かに涙を流していました。その温かな手と涙のぬくもり。当時のヒカリは自分の苦しさと激痛に必死で、お母さんがどれほど心を痛め、どれほどの愛で自分を包んでくれていたのか、気づく余裕さえありませんでした。
大きな大学病院へ何度も通い、入院で強い薬を試しても、ヒカリのアトピーは一向に良くなりませんでした。半ば諦めかけていた頃、お母さんが見つけてくれたのが、丹沢の深い緑に包まれた山奥にある、小さなクリニックでした。そこはアトピー治療で有名で、噂を聞きつけた患者が海外からも訪れる場所でした。
そこで出会ったのが、柔らかな白髪と穏やかな笑顔を持った、心優しいお医者様でした。
『ヒカリちゃん、よく頑張ってきたね。皮膚にいる常在菌やカビ、そして自分の体質の乱れ……これらはね、強い薬で力任せに叩きのめす「敵」じゃないんだよ』
先生はヒカリの傷だらけの手を、温かく包み込みながら語りかけてくれました。
『敵だと思って排除しよう、殺菌しようと攻撃すればするほど、体は傷つき、バランスを崩して悲鳴をあげてしまう。カビや菌を追い払うのではなく、視点をくるりと変えてごらん。体の中の環境……根っこにある体質を優しく整えて、菌たちと仲良く共存していくこと。それが本質なんだよ』
カビ治療という、体の内側の土壌から変えていく難しい体質改善の治療が始まりました。体を自然体に保つためお風呂で体を洗うのも止められました。汗をかく運動も中断しました。
焦らず、急がず、自分の体と対話するように過ごした1年。大学病院でも治らなかった酷いアトピーが、1年後には嘘のように消え去り、ヒカリの皮膚は健やかで滑らかな素肌を取り戻していたのです。
(そうか……! 私は……!)
ヒカリの胸の中で、雷が落ちたような衝撃が走りました。
(私はこの荒野のカビや血の匂い、ここで光を失って倒れた魂たちを『不気味なもの・消し去るべき敵』として排除しようとしていた! 自分の思い描く「理想のきれいな場所」を無理やり上書きして、この不快な空間を拒絶していたんだ……!)
かつて自分がアトピーの痛みに苦しんでいた時、力任せにステロイドで皮膚を攻撃しても治らなかったように。荒野の傷やカビ、倒れた者たちの苦しみを否定したままでは、本当の旋律は響かない。彼らと共存し、その痛みに寄り添い、視点を変えて包み込むことこそが、この世界を救う本質だったのです。
しかし、理想の旋律を差し伸べようとしたその一瞬の隙を、カデンツァは見逃しませんでした。
「消え失せろ、無理に感情を押し込めた和音ども!!」
カデンツァたちの放った暴力的な大音量の和音が、漆黒の衝撃波となってヒカリたちを直撃しました。
「きゃああっ!」
ノワールの盾が砕け散り、凄まじい衝撃波に吹き飛ばされ、ヒカリたちは荒野の冷たい赤土に無残に叩きつけられました。バイオリンが手からすっぽ抜け、乾いた音を立てて転がります。
「はぁ……はぁ……」
泥だらけになって膝をつくヒカリ。カデンツァたちは勝ち誇った冷酷な笑い声を残し、蜃気楼のように荒野の奥へと消えていきました。
完全な敗北でした。
「ヒカリ! 大丈夫か!」
ルードが駆け寄り、ノワールがヒカリの背中を支え、トリルが転がったバイオリンを拾い上げます。
「うぅ……痛い……負けちゃった。でも、わたし……わかった気がする」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ヒカリの物語には、私のアトピー体験を投影しています。
深い山中にある「りつのクリニック」にお世話になり、オンラインと通院を重ねて治療を続けました。




