5.2 弓で『音の命』を次の音へ
ヒカリの演奏が崩壊し、負けそうになったその瞬間——ギリギリのところで、ヒカリの脳裏に、日本で習っていたバイオリンの高橋先生の優しい笑顔が浮かびました。
高橋先生は、口調は厳しいけれど絶対に怒らない、とても思いやりのある先生でした。ヒカリが発表会の練習で、この『グローリア』の箇所で何度もつっかえて、悔しくて泣きそうになっていた時。先生は「ちょっと休憩しましょうか」と、温かい麦茶と星型のクッキーを出してくれたのです。
『ヒカリちゃん。ここはね、神様への賛美が空いっぱいに溢れ出す、とっても素敵な場所よ。だから、弓をたっぷり使って気持ちよく弾きたい気持ちはすごくわかるわ。でもね、弾くことに夢中になって、足元の「テンポ(歩み)」を忘れちゃダメ。心は空へ羽ばたかせても、足はしっかりと地面を踏みしめて、弓の配分を冷静に計算するのよ』
(そうだった……! 心は羽ばたいても、足元はしっかりと!)
ヒカリは食いしばっていた歯を緩め、ハッと我に返りました。ギリギリのところで弓のスピードを絞り、トリルの叩く太鼓のビートにピタリと着地します。
「ヒカリ!」
霞の光の中から、白猫のアルコが叫びました。
「焦っちゃダメだ! テンポという『音楽の時計』を壊しちゃいけない! 美しさは時間を歪めるんじゃなく、弓の滑らかさで作るんだ!」
「弓の滑らかさ……?」
「そう! 音をブツブツ切らないで、弓で『音の命』を次の音へ、そっと手渡していくんだ。それが『レガート』だよ! 時計を守りながら、旋律を歌わせるんだ!」
「時計を守り、音をつないで……弾き歌わせる!」
ヒカリは再び弓を滑らせました。
カチ、カチと敵の冷たい時計が刻まれる中、ヒカリの音は一本の艶やかな絹糸のように繋っていきます。短く切れていた旋律がつながり、滑らかに歌い始め、カビ臭い荒野に一瞬、幻のような甘い百合の花の香りが風に乗って漂いました。
「ぬあああっ!不浄! 音をつなぐなど不浄の極み!」
カデンツァが顔を真っ赤にしてタクトを振り回します。
ヒカリのレガートは確かに敵の軍勢を揺さぶりました。光のない演奏家たちの無機質な動きが、ほんの少しだけ戸惑うように揺れます。
しかし——急に、ヒカリの右腕が鉛のように重くなりました。
(どうして……? こんなに上手く歌えているのに……息が苦しい……!)
カデンツァの放つ『音楽を拒絶する呪い』が、沼の底から這い上がる泥のようにヒカリの体にまとわりついていたのです。弓を引く力が奪われ、再び音が途切れそうになったその時。
「——あなたのレガートは、少し甘すぎるわ」
凛とした声と共に、ヒカリの横にスッと並び立つ影がありました。
氷の魔法使い(まほうつかい)であり、かつてヒカリたちに敗れながらも救われた誇り高き少女、ノアールです。彼女の手には、霜をまとった美しい銀色のバイオリンが握られていました。
「ノアール……!」
「勘違い(かんちがい)しないでよね。あなたがここで倒れたら、私が助けてもらった借りを返せないじゃない。それに……」
ノアールはフッと自信に満ちた笑みを浮かべ、弓を構えました。
「バイオリンなら、私の方がずっと上手いんだから。背中は任せなさい!」
ノアールが弓を振り下ろした瞬間、パキィィィン! と空気を凍らせるような鋭く澄んだ高音が荒野に響き渡りました。
彼女の演奏は、ヒカリのそれよりも遥かに洗練された、圧倒的なテクニックに裏打ちされていました。無駄のない弓使い、完璧なピッチ。それはカデンツァの無機質な時計の針をも凌駕する正確さを持ちながら、決して冷酷なだけの音ではありませんでした。
彼女の音色には、氷の結晶が光を反射してキラキラと輝くような、内なる熱と美しさが宿っていたのです。ヒカリたちに触れて知った『誰かと音を合わせる温もり』が、氷の刃を優美な芸術へと昇華させていました。
ノアールの奏でる鋭くも美しいオブリガート(助奏)が、ヒカリのメロディに複雑に絡みつきます。ノアールの放つ冷気が、ヒカリの腕にまとわりついていた泥のような呪いを瞬時に凍らせ、砕き散らしました。
「さあ、ヒカリ! 私の音に遅れないでついてきなさい!」
「うんっ! ありがとう、ノアール!」
腕の軽さを取り戻したヒカリは、満面の笑みで頷きました。
ヒカリの温かなレガートと、ノアールの研ぎ澄まされた氷の旋律。対極にあるはずの二つの音が、まるで螺旋を描くように絡み合いながら、大きな光の渦となって荒野へ広がっていきます。二人のバイオリンが奏でる圧倒的なハーモニーに、のっぺらぼうの演奏家たちの弓が完全に止まりました。
「な、なんだこの音は……! 計算が狂う……! や、やめろぉぉっ!」
カデンツァが頭を抱え、仮面を掻き毟るように身悶えします。
二人の少女の音が繋がり、響き合うその瞬間、どんよりと濁っていた荒野の空に、一条の眩しい光が差し込もうとしました。
だが——。
「……とでも言うと思ったか、青二才どもがァ!!」
カデンツァの絶叫が止まり、頭を抱えていた彼の手がゆっくりと下ろされました。白と黒の仮面の下から覗く目は、先ほどまでの焦りなど微塵もない、底知れぬ狂気と氷のような冷徹さでヒカリたちを射抜いていました。
「甘ったるいレガートなど、圧倒的な『規則』の前では無力だと教えてやる!」
カデンツァがタクトを両手で握りしめ、天に向かって大きく振り下ろしました。
ズドォォォォン!!
荒野全体を揺るがすような、暴力的な重低音のフォルテッシモが炸裂しました。
動きを止めていた無数ののっぺらぼうの演奏家たちが、一斉に弓を叩きつけるように動かし始めます。それはもはや音楽ではなく、耳をつんざくような金属的な轟音の塊でした。
カチ、カチという時計の針の音は、巨大な鋼鉄の歯車が軋むような恐ろしい重圧に変わり、ヒカリとノアールが紡ぎ出した光と氷の旋律をいとも容易く、無残に押し潰していきます。
「うあっ……!?」
「きゃあっ……!」
音響兵器のようなすさまじい音圧の壁に弾き飛ばされ、ヒカリとノアールは荒野の泥の中へと力なく叩きつけられました。
輝きを増していた光の渦は跡形もなくかき消され、再び空は絶望的な血の赤に染まり直します。
「立てない……腕が、ちぎれそう……!」
泥だらけになったヒカリが必死にバイオリンを抱え込んで顔を上げると、カデンツァが冷酷なタクトを高く掲げ、泥に這いつくばる二人を冷たく見下ろしていました。
「これで終わりだ。お前たちの不純な音ごと、その存在を切り刻んでやろう!」
振り下ろされようとするタクト。カデンツァの真の力の前では、二人の渾身の演奏すらも歯が立たず、ヒカリたちは完全に絶体絶命のピンチへと追い詰められてしまったのです。




