5.1 断ち切られたレガート — 崩れた拍と荒野の掟 —
『時を駆け抜ける音のトンネル』を抜けた途端、ヒカリの五感を暴力的なまでの不快感が襲いました。
むせ返るような鉄の錆びた匂いと、生乾きの血の臭い。そして、長年閉ざされた地下室のような、湿ったカビの異臭が鼻の奥をツーンと刺す。
見上げれば、空は血管が浮き出たような、どす黒い赤色に染まっていました。ひび割れた赤土の荒れ地からは、肌を切り裂くように冷たい風が吹き抜け、ヒカリの頬をざらりと撫でます。足を踏み出すたびに靴の裏にはねっとりとへばりつく泥の感触があり、恐怖で乾いた口の中には、ジワリと砂を噛んだような鉄錆の苦味が広がっていきました。
あちこちに点在する澱んだ沼からは、ボコボコ、ボコ……と、まるで何かが水底で苦しげに息を吐くような不気味な音が絶え間なく響いています。
「うわぁ……鼻がツーンとする! 鉄とカビが混ざった最低の臭いだよ!」
トリルが鼻をこすりながら悲鳴をあげました。
ゴレムがズシン、と重々しく足を踏み鳴らし、低い振動音を響かせます。
「……デンジャー。ココ、生者ノ来ル場所デハ、ナイ」
「気をつけて、みんな。この荒野の空気が……私たちの音楽を、私たちの存在そのものを拒絶しているわ」
ノワールが震える手で自身の弓を強く握りしめ、ルードも険しい顔で前足の蹄で土を蹴りました。
陽炎が揺れる荒野の向こうから、ズルリ、ズルリと足を引きずるように現れたのは、のっぺらぼうの演奏家たちの群れでした。彼らの顔には目も鼻も口もなく、ただツルリとした青白い肌があるだけ。彼らが抱えるバイオリンやチェロは、木目の温かみなど微塵もない、輝きを失った濁った灰色をしていました。
彼らからは「音楽を奏でる喜び」も「悲しみ」も感じられません。正確ではあるが、光を奪われ、ただ機械のように音を出すことだけを強いられた、底なしの空虚と苦しみだけが、冷たい波動となって肌を刺してきます。
その群れの中央で、黒い燕尾服に身を包み、白と黒の半分ずつの仮面を被った男——カデンツァが、タクトを手に歪んだ笑みを浮かべていました。
「ハハハハ! よくぞ来た、不揃いで耳障りな雑音ども!」
カデンツァの仮面の奥の目が、狂気を孕んで怪しく光ります。彼は音と音を滑らかにつなぐ『レガート』を何より嫌悪していました。
「我がノエル王国に、音同士が甘え合うような『繋り』など不要! 音は切り離された正確な『点』であれ! 感情などという不純物を混ぜ込んだお前たちのひ弱な演奏など、この正確無比なリズムで叩き潰してやる!」
カデンツァのタクトが鋭く振り下ろされると、カチ、カチ、カチ……と、冷たい時計の針が刻まれるような無機質な拍が荒野を支配しました。のっぺらぼうの演奏家たちが一斉に弓を動かします。
響き渡った曲は、讃美歌『荒野の果てに』でした。
「負けない……!」
ヒカリは深く息を吸い、バイオリンを構えました。
日本にいた頃。ヒカリはクリスマスの夜、お母さんと一緒に近所の古い教会のコンサートに行ったことがあります。石造りの高い天井、ステンドグラスから差し込む柔らかなロウソクの光。そこでパイプオルガンと聖歌隊が響かせた『荒野の果てに(Gloria in excelsis Deo)』は、天から祝福が降り注ぐような、荘厳で温かい響きでした。
(荒野の果てにを、もっと美しく弾きたい! あの時の教会みたいに、『たえなる調べ』を、一つの大きな歌としてたっぷりと表現したいの!)
ヒカリは感情を込めようと、音を少し引き伸ばしました。自分の感情に合わせてテンポを揺らす「ルバート」で歌おうとしたのです。
だが、それはカデンツァの冷酷な時計の針と真っ向から衝突しました。
「おいらのリズムに合わせるんだ、ヒカリちゃん!」
トリルが必死に太鼓を叩きます。
「ヒカリ、私が音の壁を作るわ! 集中して!」
ノワールが紫の魔法の盾を展開し、敵の音圧を逸らしました。
しかし、曲は最大の難所——【サビ】へと突入します。
歌詞で言えば『グロォォォォォォォォーリア』と、ひとつの言葉を長く引き伸ばし、細かい音符が階段のように上下を繰り返す「メリスマ」と呼ばれる部分です。
バイオリンでこれを弾く場合、長いスラー(一つの弓の動きで複数の音を滑らかに弾くこと)の中で、隣の弦へと素早く弓を乗り換える複雑な「移弦」が要求されます。少しでも力んだり、弓の配分を間違えれば、一瞬にしてリズムが崩壊する危険な箇所でした。
(ああっ……!)
ヒカリは感情を乗せすぎたせいで、最初の数音で弓を大きく使いすぎてしまいました。
残りの音を弾くための弓が足りません。音がかすれ、左手の指の動きと右手の弓の動きがバラバラに絡まりそうになります。カデンツァの冷たい時計の針が、容赦なくヒカリの遅れを責め立てました。
「ハーッハッハッハ! ほら見ろ、自滅していくぞ!」
カデンツァの大爆笑が響き渡ります。




