s4 沈黙の鍵盤
玄関の鍵を破るように開け、琴葉は一直線にリビングへと駆け込んだ。
部屋の隅で長いあいだひっそりと静まり返っていた黒塗りのアップライトピアノ。蓋を開けると、眠っていた乾燥した木と羊毛フェルトの甘い匂いがふわりと鼻腔をくくぐった。冷たく滑らかな象牙の鍵盤にそっと指を触れる。ひやりとした感触が指先から腕へと駆け上がった。
琴葉は光音の部屋へと急ぎ、学習机の上に残されていた小さなケースから、バイオリンの松脂の粉を手のひらに集めた。琥珀色の粒は、夕闇の中で不思議な微光を放っている。それをピアノの鍵盤の上にサラサラと振りかけると、まるで金色の星屑が落ちたようにきらめいた。
(光音に繋る道は、このピアノだけ……!)
椅子に座り、深呼吸をする。指を鍵盤に置いたのは、何年ぶりだろうか。
かつて自分を苦しめたトラウマを振り払うように、琴葉は昔好きだった小品を弾き始めた。
しかし——指が動かない。
右手と左手のタイミングが微妙にズレ、意図しない濁った音(不協和音)が部屋に低く響く。思うように動かない自分の指に対するじれったさと、何年ぶりかの慣れない演奏で「間違えてはいけない」という身体に染みついた恐怖が、指先をカチコチに強張らせた。
(ああ……光音は、毎日このもどかしさと戦っていたんだ)
頭では完璧な音色を思い描いているのに、指先が追いつかない焦燥感。音を外すたびに胸がキュッと縮こまる感覚。
自分が「どうしてできないの!」と追いつめていた時、光音がどんなに孤独で、どんなに悔しい思いで楽器と向き合っていたのか。身をもって体感した痛みが、琴葉の胸を深く締め付けた。
(上手いとか、下手とか、そんなことどうでもよかったんだ……。本当は、音を出すことそのものが、こんなにも愛おしくて自由なはずなのに)
琴葉はそっと目を閉じ、鍵盤から力を抜いた。
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