1.1 謎の楽譜と異世界ワープ
その少し前のこと。今日はクリスマスイブ。半日授業が終わった放課後の音楽室、校舎はしんと静まり返っていました。
光音は、市民会館のホールで開かれる音楽教室のクリスマス発表会に向かわなければなりません。1年間のレッスン成果を披露する、大きなステージです。
(でも……行きたくない。弾きたくないよ……)
昨日も、お母さんに打ち明けたばかりでした。
『お母さん、わたし、明日の発表会……すごく辛い。怖いよ』
『なに言ってるの、光音。ここまでやってきたんだから、練習するしかないでしょ。ほら、もう一度最初から!』
お母さんは光音の怯えや苦しみに耳を傾けてはくれず、ただ練習を促すだけでした。一度は諦めて発表会に行くしかないと思い詰めたヒカリでしたが、いざ当日を迎えると、どうしても足が前に進みません。
レッスンに行くため音楽室にあずけてあったバイオリンのケースを抱えながら、光音のこころは激しく揺れていました。
いつものグループレッスンとは違い、これから最後の個人レッスンを高橋先生のところへ行って、本番前の調整をすることになっています。
バイオリンを始めたばかりの頃は優しくて大好きだった先生も、いまや『はい、やり直し!』と眉をひそめる先生になってしまいました。
どうして、こんなことになっちゃったんだろう。これから、どうしよう——。
学校の音楽室を包む空気は、どこまでも静かで、冷ややかでした。
窓の外では、白にも灰色にもなりきらない色のグランドが、低学年の子供たちをやさしく包んでいた。天井から落ちる冬の影は、波のように足元へ押し寄せていました。
光音は膝の上に置いたバイオリンの琥珀色の木肌を、愛おしむようにそっと指先でなでました。職人の手が丹念に磨き上げたその曲面には、わずかな光がかすかに揺らめいています。
ふと、ピアノの裏側にある古びた楽器棚に目が留まりました。
棚の一番下の薄暗闇の本の中に、何か「異質な光」を放つものが挟まっていたのです。
「……何だろう、これ」
吸い寄せられるように近づき、指先を滑らせて引っ張り出したのは、見たことのない古い冊子でした。
革の表紙は、長い年月を吸い込んだ深いワインレッド。そこに刻まれているのは複雑な紋章——太陽と三日月、そして音符が交差するような羊の革でできた黄金色の羊箔でした。
表紙をめくると、独特の古い紙の甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐります。
中に並んでいたのは、見慣れた黒い音符ではありませんでした。真珠母貝のように七色に光る五線譜の上で、金と青の小さな粒子で描かれた音符が、まるで呼吸をしているかのように、かすかに明滅していたのです。
楽譜の最初のページ。と音記号の横にぽつんと書かれていたのは、一番シンプルな音。バイオリンの真ん中の弦、『A』の音符でした。
その音符の周りだけ、琥珀色のあたたかな光が灯台のように灯っています。
(なんだろう……すごく、綺麗な音符)
光音は吸い込まれるように、バイオリンを左肩にのせました。あごあてに頬を添えると、伝わってくるのは木のぬくもり。右手に握った弓の毛に力を入れず、ただ弦の上にそっと乗せます。
お母さんや先生の『弓をまっすぐ!』という小言も、間違える恐怖も、遠い世界の出来事のように消え去っていました。
光音は静かに息を吸い込み、弓をすうっと滑らせました。
――――ラーーーーーーーーー……。
どこまでも透き通った、真っ直ぐな「ラ」の音が音楽室に響き渡りました。希に出るギィという雑音は聞こえません。
その瞬間、楽譜の『A』の音符が弾け、眩いばかりの金色の粒子が、部屋中に一気に溢れ出しました。夕闇の群青色と、黄金色の光が混ざり合い、音楽室全体がまるで深い宇宙のオーロラの中に呑み込まれていくようです。
「キャッ……!? なに……なにが起きているの!?」
足元の床が水面のように揺らぎ、重力を失った体がいやおうなく浮き上がります。
視界が激しく旋回し、光と影の奔流の中で、光音の頭の中に怒涛のような記憶の光景、フラッシュバックが駆け巡りました。
——パッと弾けるのは、1年前の春の光。
明るい陽射しが差し込む楽器店。そこに並んでいた琥珀色のバイオリン。
『光音、弾いてみる?』
そう言って笑っていたお母さんの、あの温かくて優しい笑顔。初めて指で弦を弾いたとき、小さな胸に響いた「ポーン」という可愛らしい音のときめき。
——視界が反転し、影が混ざり合う。
譜面台の上に落ちる、黒い涙の跡。
赤ペンで何重ものバツ印がつけられた練習帳。
『どうしてできないの!』と眉間にしわを寄せるお母さんの顔と、その奥に見えた、どこか泣きそうな哀しい目。
『はい、もう一度!』という高橋先生の感情のない声。
放課後の公園から聞こえる楽しそうな友達の笑い声と、自分を閉じ込めていた狭い部屋の静けさ。
(あんなに楽しかったのに……! あんなに、バイオリンの音が好きだったのに……!)
光の渦の中で、光音の胸から溢れ出したのは、ずっと閉じ込めていた気持ちでした。
上手に弾きたかった。お母さんに褒められたかった。お父さんを驚かせたかった。お何より……あの初めて音を鳴らしたときの、胸が躍るようなワクワクを、もう一度感じたかった!
「私……わたし……!」
叫ぼうとした声は、ゴーッと鳴り響く光の風の中に消えていきました。
あたたかな家族の過去の光と、苦しい影の記憶がひとつに溶け合い、旋風となってヒカリを包み込みます。バイオリンをしっかりと抱きしめたまま、ヒカリの意識は、果てしない光の裂け目へと真っ逆さまに落ちていきました。
光が弾け飛んだあと——旋風が去り、旋律が途絶えた。
どこまでも冷たく、深い雪の匂いのする風が、ヒカリの頬をなでていました。




