4.2 全弓の航路、O Come, Little Children
『ヒカリ。大きな音を出したい時、力むのも、闇雲に弓のスピードだけを上げるのも禁忌です。弓のスピードを速くしすぎると、弦を捉えきれずに音が滑り、浅く汚いノイズになってしまいます。
魔法の二つ目は【全弓の航路】! 音符の長さに合わせて、弓を弦に接させる長さ(ルート)を、弓元から弓先まで目いっぱい長く使うのです!』
「弓の……走らせる長さ(ルート)……! そうか、ルード! 海辺の国の大きな風車はどうやって豊かにエネルギーを生み出すんだっけ!?」
氷の魔獣が振り下ろす巨大な爪の影の下、絶望的な冷気に皮膚を裂かれながら、ヒカリは叫びました。
雪原に叩きつけられ、口の中に広がるすっぱい唾液と切ない鉄の味を吐き捨てながら横たわっていたルードが、ハッとその耳を跳ね上げます。
「風車……? 小さく動かすんじゃない……羽根の全体の大きさを丸ごと使って、風を長く抱きとめるからだ……ああっ!」
「そう! スピードで誤魔化したり力で押し潰すんじゃない! 弓の全長……弓元から弓先までの全体の長さ(ルート)を使って、音符の長さに合わせて弦の上を長く、滑らかに走らせるんだ!」
『その通りです! そして三つ目……【風の軌道】!』
脳内で響くアルコの透き通った声が、ヒカリの全身の血を熱く滾らせます。
『バイオリンの端、駒のギリギリ近く……そこは【烈風の聖域】。そこに弓を近づけるほど、弦の張力が強まり、全弓で長く引いた時に深みのある太い響きが生まれます。逆に指板へ近づければ、吐息のように柔らかく甘美な音が溶け出すのです!』
ヒカリはノワール・アリアの紫水晶の瞳をまっすぐ見つめ直しました。
ノワールの胸の奥は、狂おしいほどの苦痛と孤独で煮え滾っていました。
(なぜ……なぜ笑うの!? なぜ諦めないの!?)
ノワールにとって、音とは牙であり、鎧であり、世界から自分を守るための唯一の城塞でした。かつて「純銀の歌姫」と呼ばれた頃、彼女の繊細な耳は人々の罵声や暴力的な大騒音に晒され、まるで鋭い針で鼓膜を刺され続けるような激痛にのたうち回ったのです。優しさなど何の役にも立たなかった。だからこそ、絶対的な不協和音の暴力で全世界を叩きのめし、冷たく静寂な「氷の牢獄」に封じ込めることだけが、彼女の唯一の救いでした。
(私はもう、二度と傷つかない! 私の氷獄の音波で、その薄汚い希望ごと砕け散りなさい!!)
ノワールが狂気を含んだ悲鳴を上げ、絶対零度の氷の魔獣が咆哮とともに爪を振り下ろします。大気が歪み、衝撃波が雪原の氷床を地響きとともに爆砕していきました。
しかし、ヒカリは逃げませんでした。足の裏から大地の冷気を捉え、ゆっくりと静かに息を吸い込みます。
『大きな音で遠くの誰かを呼びたい時は、広い世界に声を届ける自分を思い描いて、深く息を吸う。小さな音で誰かを包みたい時は、眠る子猫を撫でる自分を思い描いて、細く長く息を吐く。この心音の呼吸こそが、奥義の鍵ですよ』
(ノワールの、傷ついた心に届けるために……最初は優しく。そして、私の全部の想いを乗せて!)
ヒカリは深く息を吐き切り、丹田へ意識を落としました。
肩からすっと力が抜け、指先の感覚が極限まで研ぎ澄まされていきます。ヒカリは弓を指板の近く——『ささやきの領域』へと優しく乗せました。
《♪ O Come, Little Children……(こどもたちよ、おいで……)》
ふわりと舞い立ったのは、小さく、そっと頬を撫でるようなデクレッシェンド(だんだん弱く)の音色。それはノワールが撒き散らす耳を刺す不協和音の隙間を、まるで春の風のようにすり抜けていきました。
「なっ……!? 私の衝撃波を、すり抜けて……!?」
ノワールの耳に、その音が届いた瞬間。
皮膚を刺すような刺々(とげとげ)しい激痛ではなく、まるで凍えた耳元に温かな吐息を吹きかけられたかのような、懐かしい温もりがノワールの胸の奥をノックしました。激痛に怯えて閉ざしていた彼女の鼓膜が、ふっと緩みます。
「そんな……そんな弱々しい音で……私を騙せると思うなッ!!」
ノワールは動揺を打ち消すように、紫の氷の弓を突き上げ、さらに巨大な氷塊の嵐を発生させようとしました。
「今だ! 息を深〜く吸い込んで……弓を通す場所を、駒の近くの『烈風の聖域』へ引っ越しだ! スピードで誤魔化さず、弓元から弓先まで、全弓のルートをいっぱいに滑らせて……音符の命を長く響かせるんだ!!」
ヒカリは胸いっぱいに冬の澄んだ空気を吸い込みました。
そして——
《♪〜〜〜〜!!!》
弓が、駒のギリギリの領域で、弓元から弓先までの「全長」を余すところなく贅沢に走破していきました!
無理な圧力や急なスピード変化で弦を暴れさせるのではない。音符の長さにぴったりと合わせ、弓のルート(接触距離)を最大限に使って弦全体をたゆまず振幅させる完璧な全弓演奏!
バイオリンの木目が「ゴオオオオッ!」と唸りを上げ、ヒカリの手のひらや鎖骨を通じて全身へ、そして雪原の底へと黄金のグラウンディング(重力共鳴)が伝波していきます。
放たれたのは、濁った雑音やかすれた音色ではない。弓幅いっぱいに弦を鳴らし切ることで生まれた、圧倒的な透明感と太さを持った、眩い光の津波!
「これが……全弓のルートで奏でる、クレッシェンドだあああッ!!」
ドゴォォォォンッ!
ヒカリの解き放った光の旋律波は、襲いかかっていた氷の魔獣を正面から呑み込み、粉々の輝く結晶へと粉砕しました。それだけではありません。全弓で深く長く伸ばされた旋律の波は、ノワールが展開していた深紫の吹雪を鮮やかに塗り替え、空一面を琥珀色と黄金色の光で満たしていきます。
「ああっ……!? なにこれ……!? 音が……どんどん大きくなって……私を包んでいく……!」
ノワールは衝撃で目を見開きました。
耳が痛くない。あんなに大きくて、暴風のように迫ってくる音なのに、鼓膜を刺す痛みが一切ない。それどころか、全弓の豊かな滑走から生まれる滑らかな光の波は、まるで陽だまりの中に抱きかかえられているかのように温かく、心地よい振動となって全身を駆け巡っていました。
「強く膨らむ音なのに……全然痛くない……! 押し潰されるような乱暴な音じゃない……あったかい……あったかいよぉ……!」
ヒカリのクレッシェンドは、ノワールの絶望の叫びを真っ向から、何ひとつ拒絶せずに受け止めました。そして、音波が極点に達した瞬間、ヒカリは息を細く吐き出しながら、弓を使う長さ(ルート)を静かにコントロールするデクレッシェンドへと繋ぎます。
満ちては引く波のように、優しく、愛おしそうに。その音の強弱という「心の色あざやかな波」が、ノワールの魂の奥底でカチコチに凍りついていた氷の鎖を、一気に溶かし去っていきました。




