4.1 凍てつく黒羽と、光のクレッシェンド、上弓(アップボウ)
風が止み、果てしない白銀の静寂が広がる朝。
旅の途中、猛吹雪が去った後の雪原には、うっすらと二つの月が浮かび、朝のかすみが広がっていました。宙を舞うダイヤモンドダストは、光を浴びて金、淡い桃色、そしてエメラルドグリーンの輝きを放ち、まるで空から星の破片が降り注いでいるかのようです。
「……音楽はね、ヒカリ」
トリルが白く温かな吐息を零しながら、静かに言いました。その瞳は、誰もいない澄切った大空を見つめています。
「音とリズムは、世界の呼吸そのもの。空気にそっと腕を伸ばして、この世界をまるごと抱きしめることから始まるんだ」
ヒカリはバイオリンを構えたまま、自分の指先を見つめました。
旅の途中で与えられた課題曲——『O Come, Little Children』。その譜面の冒頭に刻まれた記号を見つめます。
(はじめての、アップボウ / 上弓)
弓の根元を弦に乗せ、下に向かって滑らせる「ダウンボウ(下弓)」が基本的なバイオリンの奏法。だが、この曲は反対のアップボウから始まります。ヒカリが豊かな音を出そうと意気込むと、弦は「ガリッ!」と潰れた悲鳴を上げるか、あるいは逃げるようにヒュルヒュルとかすれた弱々しい音しか出ませんでした。
上手く弾かなきゃと焦れば焦るほど肩が上がり、腕は丸木のように強張っていきます。
「やれやれ。お嬢ちゃん、それじゃあ楽器が痛がっているよ」
シャン、と銀の鈴を鳴らして、ふかふかの雪山からひょっこりと顔を出したのは、ソリを引いていたトナカイでした。
粉雪のように真っ白な毛並みに、立派な結晶の角。丸い鼻をヒクヒクさせながら近寄ってきます。
「うわっ、トナカイさんが喋った!?」
「失礼な、ぼくはただのトナカイじゃないぞ! ぼくの名前はルード。この極寒の地を行く、最高のナビゲーターさ!」
ルードはヒカリの前でちょこんと座り、誇らしげに胸を張りました。
「ぼくはね、かつてノエル王国を脅かした大戦で、伝説の勇者のソリを引いていたんだ。勇者は剣の達人であり、同時に世界で最も美しい音を奏でる吟遊詩人でもあった。彼が激しい戦いの中でも決して体と心を壊さず、美しい音を響かせ続けられた理由……それを君に教えてあげるよ」
「勇者様の、美しい音の秘密……?」
「君たち演奏家は、音という『結果』にばかり気を取られて、音を生み出す『器』のことを忘れがちだ。楽譜を開く前に、まずは足、腰、そして腕をストレッチするんだよ。気を抜いてごらん」
ルードは前足を伸ばし、器用に体をぐーんと伸ばしてみせました。
「体が固まった状態での演奏は、筋肉同士が引っ張り合って、無駄な力が入ってしまう。東洋の武道……太極拳を知っているかい? 彼らは『松静(そんじょう=脱力)』と『丹田(たんでん=お腹の下の重心)』をとても大切にするんだ。無理な力で押すのではなく、身体の重さを丹田に集め、腕はしなやかな柳の枝のように力を抜く。バイオリンの弓もまったく同じさ」
「弓の重さを……弦に預けるの? 前にアルコが教えてくれた『大地の重力』と同じだね」
「そう! ダウンボウ(下弓)は、腕の力で無理やり引きずり下ろすんじゃない。重力に従って、腕の重みを自然に弦の上へ落としてあげるだけ。弓元から弓先へ向かって、滑り台を滑り落ちるようにね!
逆に、アップボウ(上弓)は天に釣り上げられる自然な動きに腕を任せるだけ。弓先から弓元へ向かって上がる、風船に繋がれているようにね!」
トリルが優しく微笑み、ルードの言葉に頷こうとした——その時でした。
キンッ——!
ガラスが割れるような、鋭く刺すような高音が大気を一瞬で凍りつかせました。朝陽の届く金色の世界が、瞬く間に深紫と黒銀の宵闇に塗り返されていきます。
「ふふ……甘いわね。脱力? 招きの音? そんな温い旋律で、この凍てつく世界が救えるものですか!」
激しい猛吹雪と共に空から舞い降ってきたのは、紫水晶の瞳と漆黒の翼を持つ美しくも恐ろしい妖精——『ノワール・アリア』でした。
彼女が構えるのは、絶対零度の氷結晶で削り出された魔のバイオリン『氷獄のアリア』。彼女が一筋の弓を滑らせると、大気が悲鳴を上げ、音速の衝撃波が雪原を爆砕しながら迫り渡ります!
かつてノワールは、王国の聖なる合奏を司る「純銀の歌姫」でした。美しい声とバイオリンの音色で人々の傷を癒していた彼女ですが、時代と共に人々は暴虐で暴力的な大騒音を求め始め、繊細なノワールの演奏に『退屈だ』と罵り、石を投げつけたのです。
傷つき、翼を黒く染めた彼女は悟りました。——優しい音など、世界を壊す雑音の前には無力であると。それ以来、彼女は自分の繊細な耳を守るため、絶対的な暴力の不協和音で全世界を凍結させ、完璧な「無音の牢獄」に閉じ込めようと誓ったのでした。
「聴きなさい! 私の心を開かせようとした者たちが、破滅していった絶望の旋律を!」
ノワールが鋭い上弓を突き上げると、十数本の巨大な氷刃が空中に生成され、雨のようにヒカリたちへ降り注ぎました!
「くっ……なんて圧倒的な音圧なんだ……!」トリルが耳を押さえて崩れ落ちます。
「ヒカリ、ぼくの赤いソリに乗りな!!」
ルードが力強く叫び、ヒカリを巨大なソリへ跳ね上げました!
「トナカイの走法は、打楽器のグラウンディングと同じ! 大地の振動を蹄で吸収し、衝撃波を無力化するんだ!」
ルードは「タ・タ・タン!」と力強い四拍子のステップで雪原を打ち鳴らしました。すると、ルードの立派な氷の角が黄金色に共鳴し、ヒカリたちの周りに『音響共鳴バリア』が展開されます!
ノワールの放つ氷刃がバリアに激突し、激しい火花と音波の嵐が巻き起こります。ルードは超高速で雪原を滑走しながら、旋風のように氷の刃をすり抜けていきました!
「すごい……ルード! ノワールの攻撃を全部弾いている!」
「油断するなよ! ぼくが機動力を支える! 君は自分の丹田を意識して、落ち着いて弓を乗せるんだ!」
ルードの見事なアシストに支えられ、ヒカリは深く息を吐き出しました。肩の力を抜き、腕の重さをそっと弦に乗せます。
(押し付けない。重さをそのまま、弦に託すんだ——)
《ファー、ミ、ファ、ソ……》
ルードの走る疾走感に乗せ、ヒカリのバイオリンから琥珀色の温かな光波が撃ち出されました。それはノワールの不協和音を優しく包み込もうと広がります。
しかし——ノワールの紫水晶の瞳が冷酷に輝きました。
「小賢しいわ……! 伝説のトナカイの助けを借りようと、その程度の生ぬるい音で私の絶望に届くはずがないでしょうッ!!」
ギリリィッ! とノワールが弓を弦に深く叩きつけると、空間そのものが軋むほどの巨大な氷の魔獣が実体化しました。魔獣が咆哮すると、超重音波の暴風が吹き荒れ、ルードの共鳴バリアがあっけなく粉砕されます!
「うわああああっ!?」
激しい衝撃にソリが横転し、ヒカリとルードは雪原へ激しく投げ出されました。
「きゃあああっ!」
雪に倒れ込んだヒカリの手から、バイオリンがこぼれ落ちそうになります。指先は氷の冷気で凍りつき、恐怖で全身がガタガタと震えていました。ノワールが放つ圧倒的な強さ、そして世界を憎む深い哀しみの圧迫感に、心が折れそうになります。
(ダメだ……優しいだけの音じゃ、ノワールの氷の魔獣に押し負けちゃう! もっと大きく、もっと強い音を出して打ち消さなきゃ……!)
立ち上がったヒカリは焦りから腕にぎゅうぎゅうと力を込め、無理やり弦を押し潰して強烈な音を出そうとしました。ですが、鳴ったのは「ギギッ!」という耳を刺す無惨なノイズだけでした。
『ヒャハハハ! ほら見なさい! 力を込めれば込めるほど、あなたの音は汚く歪む! それが人間の醜い本質よ!』
ノワールが高笑いし、氷の魔獣がヒカリを見下ろして巨大な爪を振り上げます。
「くっ……力が入りすぎてるのはわかってるのに……どうすれば、ノワールに負けない大きく豊かな音が出せるの……!?」
絶体絶命の危機と焦りの中、ヒカリの脳裏に、かつてアルコが教えてくれた『魔法の弦縛り』の続きが、鮮やかな光と共に蘇りました。




