s3 羊皮紙のメッセージと光の予感
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坂道の途中で膝をついていた琴葉のポケットで、スマートフォンが急激な電子音を鳴らした。
画面に表示されたのは、小学校の担任・佐藤先生の名前だった。琴葉は震える指で受話器を耳に押し当てた。
「は、はい! 琴葉です! 佐藤先生、光音は……!?」
『お母さん、落ちついて聞いてください!』
佐藤先生の声は、どこか混乱と興奮の交じった不思議なトーンを帯びていた。
『先ほど音楽室をもう一度捜索したのですが……音楽室のピアノの下に、光音さんのバイオリンケースはあるのですが、本体が無くなっていることがわかりました。あの子、自分で持って行ったようです』
「え……? でも、学校からそのままバイオリン教室へ行くなら、本体だけ持ち出すはずが……」
『それだけじゃないんです。ケースが置かれていたその場所に……見たこともない古い紙切れが残されていました。そこに、光音さんの筆跡でメッセージが書かれていたんです。今、写真を送ります!』
ピコン、と通知音が鳴る。
琴葉は祈るような心地で画面を開いた。
そこに映し出されていたのは、現代のノートやメモ帳の切れ端などでは到底なかった。
端が少し焦げたように丸まり、まるで羊皮紙のような深みのある羊乳色の紙。そこに、見紛うことなき光音の、少し丸みを帯びた愛らしい筆跡でこう記されていた。
『お母さん心配しないで、
今はとても不思議なところにいます。
連絡がこれしかできないです。
いつ戻れるかわからないけど、
家で待っていてね。光音』
「な……なに、これ……?」
琴葉は息をのんだ。
誘拐や事故といった事件の生々しい恐怖が、一瞬にして別の「不可解な何か」へと塗り替えられていく。
(不思議なところ……? 連絡がこれしかできない……?)
夕闇が迫る街角で、琴葉の手の中でスマホの画面が白く光っていた。
音楽室の開け放たれた窓。持ち去られたバイオリン本体。そして、学校にあるはずがない時代錯誤な羊皮紙に書かれた文字。
その瞬間、琴葉の中で眠っていた記憶の扉が、カチャンと音を立てて開いた。
そういえば琴葉は、少女のころから大のファンタジー小説好きだったのだ。『指環物語』や『ナルニア国物語』、タンスの裏や古本屋の扉の向こうに広がる、誰も知らない異世界——。
(まさか……本当にあるの? 違う国……ううん、この世界の裏側にある『別の世界』へ、あの子は行ってしまったの……!?)
突如として、琴葉の周囲の空気が一変した。
冬の冷たい街風の中に、突如として甘い百合と、濡れた苔、そして星屑のような澄んだ甘い香りがふわりと混ざり込んだ。
ハッと見上げると、街灯の灯りの隙間に、まるで金色の粉を振り撒いたかのような眩しい光の粒子がチラチラと舞い踊っている。
(光……? 香り……? これ、何……?)
それは日常のシームレスな裂け目から漏れ出てくる、未知なる世界の吐息だった。
信じられないはずの現実。けれど、胸の奥でドキンと大きな鼓動が跳ね上がった。恐怖ではない。長年忘れていた、物語の1ページ目をめくる時のような、背筋がゾクゾクするような「ワクワクとドキドキ」だった。
「光音は生きている。あの子は今、本当に『魔法のような世界』にいるんだ……!」
だが、どうすればいい? 警察に電話したところで「娘が異世界に行きました」なんて信じてもらえるはずがない。
自分からあの子に連絡を取る方法はないのだろうか。魔法の世界なら、心を通わせる手段があるはずだ。
「……あの子だわ!」
琴葉の脳裏に、ひとりの少女の顔が鮮明に浮かんだ。
光音のクラスメイトで、親友の美緒ちゃんと同じグループにいる結衣ちゃん。
いつも妖精や魔法の本を抱えていて、クラスでは「おとぎ話が大好きな夢見る子」と呼ばれている少女だ。ヒカリからも「結衣ちゃんはね、不思議なおまじないをたくさん知っているんだよ」と聞いたことがあった。
琴葉は迷わず、結衣ちゃんの母親の連絡先を探して電話をかけた。
『もしもし? 結衣ちゃんのお母さん?』
電話口に出たのは、結衣ちゃん本人だった。ヒカリがいなくなったと聞いて、心配して待っていたらしい。
琴葉は意を決して、羊皮紙の手紙のこと、そして「ヒカリが不思議な世界に行ってしまったかもしれない」という突飛な推測を、まっすぐに伝えた。
普通なら笑い飛ばされるような話だ。だが、結衣ちゃんは違った。
『やっぱり……!』
結衣ちゃんの弾んだ声が、受話器の向こうから返ってきた。
『光音ちゃん、最近ずっと言ってたんです! 「音楽室でバイオリンを弾いていると、ときどき綺麗な光の粒が見えて、見たこともない花の匂いがする」って!』
「光と、香り……! 今、私にも見えたわ!」
『お母さん、届きます! 異世界に行ったとしても、音と想いは世界を繋ぐ“架け橋”になるんです!』
結衣ちゃんは興奮気味に、だが確信に満ちた声で「素晴らしいアドバイス」を琴葉に贈った。
『魔法の世界には【音律の波長】っていう繋がりがあるんです。ヒカリちゃんがバイオリンを持って行ったなら、向こうの世界でもきっとバイオリンを弾くはずです。
お母さん、今すぐ家に帰ってください! そして、ヒカリちゃんが大好きだった曲を、お母さんがピアノで奏でるんです。
ただ弾くんじゃありません。部屋を楽譜が見えるぐらい暗めにして、あの子のバイオリンケースに残っている【松脂の粉】をピアノの鍵盤に少し振りかけてください。それが、あの子の楽器と、お母さんのピアノを繋ぐ“音の目印”になります!
想いを込めてピアノを弾けば、その音波は次元の壁を越えて、光音ちゃんのバイオリンに共鳴して響くはずです! 演奏の中で、お母さんのメッセージを『音』に乗せて送るんです!』
「音の目印……ピアノで、想いを届ける……!」
琴葉の胸に、目から鱗が落ちるような衝撃が走った。
かつて自分を縛りつけ、苦しみの象徴でしかなかった「ピアノ」。
それが今、異世界へ旅立った娘と自分を繋ぐ、唯一無二の「魔法の通信機」へと姿を変えようとしていたのだ。
「ありがとう、結衣ちゃん! 私、やってみるわ!」
『頑張って、お母さん! ヒカリちゃんに、お母さんの本当の音を届けてあげて!』
通話を切った琴葉は、もう立ち止まらなかった。
夕闇に染まる街を、琴葉は駆け出した。自分の足音とともに、胸の中で情熱の炎がバチバチと音を立てて燃え上がる。
待っていて、ヒカリ。
今度は私から、あなたへ音を届ける。
厳しさの定規なんかじゃない、あなたを愛する私の本当の音を——!
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