3.2 移調復習と大地の重力
プレストチェイサーの巻き起こす黒い突風が広場を吹き荒れ、子供たちの悲鳴と狂乱の演奏が渦巻いていました。
「クソッ……! 風が速すぎて剣筋が見切られる! だが、ヒカリには指一本触れさせんぞ!」
前衛で身を挺する剣士カイルが、大剣を身構えて黒い旋風を受け止めていました。突風が甲冑を削り、火花が散ります。カイルは圧倒的な風圧に押し戻されながらも、必死に踏みとどまってヒカリへの射線を塞いでいました。
「トリルくん! わたしの音と、あなたのリズムを合わせよう!」
ヒカリは必死にバイオリンを構え、ハ長調(トニカC)で『ジングルベル』を弾き出しました。
♪ ミ・ミ・ミ〜(は〜し〜れ〜)
♪ ミ・ミ・ミ〜(そ〜り〜よ〜)
しかし、弦に弓を押し付けた瞬間、 ギーッ! と悲鳴のようなノイズが響きます。指がポジション移動でバタついてしまい、素早いテンポについていけません。
『ヒャッハッハ! ガチガチの指だな小娘! そんな遅い音じゃ風は斬れんぞ!』
「ヒカリ、そのままじゃダメだ!」
革コートをなびかせた学者ホリーが、目まぐるしく変化する音の波動を洞察して叫びました。
「バイオリンでトニカCのまま弾くと、開放弦が使えずに指が詰まり、どうしても腕に無駄な力が入ってしまう! ヴァイオリンが最も華やかに響く『トニカA(イ長調)』に移調するんだ!カラオケでいう『キー』変更だよ」
「い、移調……!? ここでキーを変えるの……!?」
「そうさ!教会での復習だよ。 移調っていうのは、メロディの『音の間隔(形)』はそのままに、スタート地点の音の高さをスライドさせる技だ! 頭の中で『ド』だった基準を『ラ』の音へスライドさせ、調号に『ファ・ド・ソ』のシャープ(♯)を3つ加えるイメージを持つんだ! そうすれば、バイオリンで一番響く『A線』や『E線』の開放弦(指を押さえない弦)をフルに使えて、指の負担が劇的に減るんだよ!」
ホリーの叫びに答えるように、シュッ! と擦れた弓から『星晶の松脂』の粉が舞い上がり、光の中からアルコとバルタザールの声が重ね合わさるように響き渡りました。
『その通りです、ヒカリ! そして、楽譜には「強く(フォルテ)」や「弱く(ピアノ)」という記号がありますね。あれはただ「強く弾いて音量を上げろ、弱く弾いて下げろ」という命令だと思っていませんか?』
「うん……! 大きく弾こうとして弓を押すと、いつも『ギッ!』て嫌な音がしちゃうの。弱く弾こうとすると、ひょろひょろって音が消えそうになっちゃって……!」
『ふふ、よくぞ気づきましたね! 力を込めて弦を押すのは、誰もが陥る禁忌の罠です。音を奏で始めたばかりの者が、美しく音の強弱を生み出すための「三つの魔法の弦縛り(つるばり)」の一つ目を教えてあげましょう!』
アルコは肉球でパステルブルーの雪をポンと叩き、得意げに胸を張りました。
アルコは肉球でパステルブルーの雪をポンと叩き、得意げに胸を張りました。
『一、「大地の重力」!
まず、大きな音を出そうと手首に力を込めて、力任せに弓を弦へ押し付けてはいけません。バイオリンが出す音の厚みとは、自らの腕力で作るものではなく、あなたの肩から腕へと伝わる「自然な大地の重み」をそっと弦に乗せること。それだけで、楽器自身が勝手に歌い出してくれるのです!』
アルコは自分の尻尾を弓に見立てるように、ゆらりと揺らして見せました。
『そこで大切なのが、弾く前の儀式……名付けて『重力の秤』ニャ!
弦に乗せる重さは、音を出す前にちゃんと測ることができます。まずは音を鳴らさず、弓を弦の上にそっと置いてみてください。そして、手首を柔らかく保ったまま、弓を上下に数ミリだけ小さく揺らします。
このとき、弓と一緒に「弦そのもの」がわずかにたわんで動くのを感じますか? それが、弦が重みを受け止めている証拠。そこから一番軽い力……弦の微かな振動を感じ取れるだけの最小限の圧力をキープするのです。
その「最適な重み」を確かめた状態から、一気に弓を引く!
すると、弦の震えが楽器のボディ全体へ最も効率よく伝わり、最大の共鳴を生み出します。
曲に入る前にこの感覚を掴んでおけば、音のボリュームと深みが魔法のようにグッと増すのです!』
さらに、ゴレムの胸の結晶をとおして、バルタザールの深みのある声が響きます。
『そうじゃ、ヒカリちゃん。強弱とは「腕力」ではなく「乗せる重力(重み)の量」のコントロールなのじゃ。そしてな……トニカAに移調すると高音は華やかに響くが、曲のベースとなる「低い音の重み(大地の重力感)」が少し薄くなってしまう。だからこそ——!』
ホリーが間髪入れずに村人たちへ振り返り、力強く指示を飛ばしました!
「トリル! 村のみんな! ヒカリがトニカAで高らかに舞う分、低音部が手薄になる! トリルは小太鼓とゴレムで重厚なベースリズムを刻め! 村のみんなは歌のパートを二つに分けるんだ! 高い声の子供たちはヒカリのメロディを、大人のみんなは低い声のパート(バス・アルト)で『ラン・ラン・ラン』と大地の底音を支えておくれ!」
「おうっ! 任せとけ!」「みんな、ヒカリちゃんを歌で支えるんだ!」
トリルと村人たちが一斉に声を上げました。焦りでバラバラだった村の心が、一瞬で一つの合奏へとまとまっていきます。
(力じゃなくて……重みを乗せる。そして、トニカAへ……!)
ヒカリは肩からスッと力を抜き、腕を大木からぶら下がる果実のようにリラックスさせました。弓の重さだけをそっとA線の上に乗せます。
ガチガチに強張っていた腕の関節が魔法のように滑らかになり、開放弦の豊かな共鳴がバイオリンの胴体全体を震わせ始めました。
「すごい……! 腕が羽みたいに軽いのに、音はこんなに深く響く……!」
『さあ、ヒカリ! 力みを手放した今のあなたなら、どんなに速いテンポの嵐の中でも、自分の羽で優雅に舞い、指を走らせることができるはずです!』
「うん! トリルくん、ゴレム、村のみんな! 今度こそ行くよ、私にリズムと低みをちょうだい!」
「おうっ! おいらのビートが大地の道標だ!」
トリルがスレイベルを「シャン! シャン!」と力強く鳴らし、ゴレムが「ズン! ズン!」と地に足をつけ、村人たちの低く温かい歌声が合唱となって響き始めました。
ヒカリは焦りを完全に鎮め、トニカAへ移調した『ジングルベル』を奏で始めました。
まずは物語の始まり——【Aメロ】です。
♪ ド♯・ド♯・ド♯〜(は〜し〜れ〜)
♪ ド♯・ド♯・ド♯〜(そ〜り〜よ〜)
♪ ド♯・ミ・ラ・シ・ド♯〜〜(ゆ〜き〜を〜け〜り〜)
トリルとゴレム、そして村人たちの重厚な和音に乗せて、一定のテンポで刻まれる明るいイ長調の響き! 重みを味方につけたヒカリの弓は、開放弦をたっぷりと響かせながら、風を切り裂くように滑らかに動きます。プレストチェイサーが顔を歪めました。
『グヌヌ……!? 急に音が太く明るくなっただと!? だが、そこから先はどうだ!? 焦れ! 走れ! パニックになれぇぇッ!』
プレストチェイサーが最後の黒い突風を叩きつけました。
ヒカリの演奏は、曲の表情がガラリと変わる【Bメロ】へと入ります。
♪ レ・レ・レ・レ・レ・ド♯・ド♯・ド♯〜(た〜の〜し〜く〜う〜た〜お〜う〜)
(あ……っ! メロディが変わったら、指がバタバタしちゃう……!)
メロディの音形が変わった途端、指の複雑な動きに気を取られ、ヒカリのテンポが急激に乱れ始めました。
「ヒカリちゃん、リズムが突っ込んでる! 落ち着いて!」トリルが声を張り上げます。
♪ ド♯・シ・シ・ド♯・シ……??
「キーッ!」と、バイオリンから耳障りな不協和音が鳴り響きました!
『ヒャッハッハ! また、引っかかったな! 最初からやり直しだ! パニックになって焦り死ねぇぇッ!』
「あわわっ! 間違えちゃった……最初から弾き直さなきゃ!」
ヒカリが焦って曲の頭に戻ろうとした、その時です!
ヒカリの肩の上で、ゴレムの翡翠色の目が「カッ」と輝き、バルタザールの喝が飛んできました!
『重力の秤』はYoutube「プロの指(Violin)」を参考にさせて頂きました。
https://www.youtube.com/@%E3%83%97%E3%83%AD%E3%81%AE%E6%8C%87Violin




