s2 色あせる街と、焦燥のテンポ
スマホの画面に踊る『バイオリン教室・高橋先生』の文字を前に、琴葉の指先は凍ついたように動かなくなっていた。「……光音ちゃんが、まだいらっしゃらなくて……」高橋先生の困惑を含んだ声が、受話器越しに耳を刺した。
学校の担任からは「午前授業のあと、音楽室に残って練習すると言っていた……」と聞かされていた。だが、先生たちが校内を捜索しても、見つかったのは冷たい冬風が吹き込む開け放たれた窓だけ。手掛かりは残されていなかった。
すがる思いでかけた親友の美緒ちゃんの家でも、「ちょっと元気がないかなって思ったけど……」という言葉が返ってきただけだった。
「どうして……どこへ行ったの、光音……」
居ても立っても居られず、琴葉はコートを引っ掴んで家を飛び出した。
夕暮れ時の街は、クリスマスを目前に控えて華やいでいた。
赤と緑のイルミネーションが街頭に輝き、パン屋からは香ばしい焼き立ての生地と甘いシナモンの香りが漂ってくる。だが、今の琴葉の目には、その煌びやかな色彩がすべて灰色のモノクロームに掠れて見えた。すれ違う親子の笑い声すら、耳の奥で嫌な不協和音となって鼓膜を揺らす。
冬の澄んだ空気を吸い込むたび、喉の奥がツンと痛んだ。
駅と音楽教室へと続く緩やかな坂道を駆け上がる。足の裏から伝わるアスファルトの固い振動とともに、胸の奥で暴れる心臓の鼓動が激しく打ち鳴らされていた。
ドクン、ドクン、ドクン——。
早足になるにつれ、その鼓動はまるで狂ったメトロノームのように、琴葉をせき立てる。
プレスト(極めて速く)——その焦燥のテンポに息を乱しながら、琴葉の脳裏に昨夜の光景が鮮烈に蘇った。
『お母さん……あのね、私、明日のレッスン……行きたくないな。怖い、というか……』
うつむき、モジモジとスカートの裾をぎゅっと握りしめていたヒカリ。
その小さな手を、 SOSのサインを、琴葉は「忙しいから」と切り捨てたのだ。
『そんなワガママ言わないの! 今が一番大事な時期でしょ!』
(私……いつもあの子に、こんな息苦しい思いをさせていたの?)
自分の吐き出した鋭い言葉が、容赦なく脳内で再生される光音の歩幅や心のテンポを完全に無視し、ただ「上達すること」「間に合わせること」ばかりを強要していた自分の姿。あの時の光音の心臓も、今の自分と同じように、恐怖と焦りで破裂しそうに鳴っていたのではないか。
「私は……あの子に自由を与えているつもりだったのに……」
冷たい風に打たれながら、琴葉は深く、深く自分を恥じた。
琴葉は「ライフスタイルプランナー」として、洗練された暮らしを提案する仕事をしていた。経済的にも恵まれ、ヨーロッパ製の美しいバイオリンを買い与え、指導の丁寧な高橋先生の教室に通わせていた。自分自身が輝く姿を見せることが、光音の道標になっていると信じて疑わなかった。
だが、それはあまりにも身勝手な錯覚だった。
自分が育った実家は決して裕福ではなかった。それにもかかわらず、琴葉の母はご近所への見栄とメンツのために、無理をして琴葉をピアノ教室に通わせた。
密閉された埃っぽい防音室の匂い。グランドピアノの黒光りする冷たい鍵盤。カチッ、カチッ、と無機質な音を立てる木製のメトロノーム。鍵盤を間違えるたびに『ピシャリ!』と手の甲へ落とされた定規の痛み。
鍵盤の白と黒が涙で歪み、逃げ出したくて、夕暮れの線路沿いをあてもなく歩いた記憶。
自分はヒカリに体罰など与えていない。叩いてなんていない。だから自分は良い母親なのだと安心していた。
しかし、物理的な定規を使わなかっただけで、琴葉は「言葉」という目に見えない定規で、毎日、光音の心を打ちのめしていたのだ。
『どうしてそこ、もっと速く弾けないの!』
『せっかく高いお金を出してあげているのに!』
大好きな母親から向けられる「失望の視線」と「正論のムチ」。それは定規でぶたれるよりも遥かに深く、ヒカリの心を血だらけにしていた。琴葉自身が成功した主婦としてのプライドを保つために、光音を飾りの一部としてガチガチに縛り付けていたのだ。
そういえば——いつだったか光音がふっと表情を緩ませ、『今日ね、音楽教室で奏多先輩が「がんばってるね」って笑ってくれたの』と、小さな宝物のように話してくれたことがあった。
あの子にとって、あの優しい先輩が弾くやわらかなピアノの音や温かな一言だけが、琴葉の作った暗い部屋に差し込む一筋の光だったのかもしれない。それなのに自分は、『そんなことより明日のレッスンは大丈夫なの?』と、その小さな光の窓すら冷酷に閉ざしてしまった——。
坂道の途中の電柱に、琴葉は思わず手をついて立ち止まった。
口の中には酸っぱい唾液と切ない鉄の味が広がり、激しい悔恨の念が押し寄せてくる。
琴葉はプロとして、顧客の悩みに応えるために心理学やカウンセリングの技法を修めていた。仕事の場では「相手の感情をそのまま受け止めること」「相手の視点で世界を見ること」の大切さを説いていたはずだった。
それなのに、一番守るべき我が子には、何一つ活かせていなかった。
昨夜、光音が「怖い」と打ち明けた時——心理学でいう積極的傾聴を使えていれば。「そっか、怖くなっちゃったんだね」と、まずその不安な感情を丸ごと抱きしめて(承認して)あげられたはずだった。
練習中、音程やテンポという「結果」ばかりを責めるのではなく、毎日指を痛めながらも楽器ケースを開けていた光音の「プロセスと努力」を褒めてあげるべきだった。
「(あなたは)早くしなさい」というあなた視点のメッセージで圧力をかけるのではなく、「お母さんはね、ヒカリが楽しそうに弾く音が大好きなんだよ」という心のメッセージで伝え、弾くか休むかの選択権を光音自身に委ねていれば。
(知識なんて……何の役にも立っていないじゃない……!)
自分が与していたのは「自由」などではなく、「恵まれた環境」という名の分厚い檻だった。追い詰められた光音は、自由になるために、息をするために、音楽室のあの窓から……この世界から逃げ出すしかなかったのだ。
「ごめんね……光音。ごめんなさい……!」
膝から崩れ落ちそうになりながら、琴葉は涙を流した。温かい涙が頬を伝ってポロポロと落ち、アスファルトの上に黒い染みを作っていく。
バイオリンなんて、上手く弾けなくたってよかった。クリスマス会で失敗したって、笑って抱きしめてあげればよかった。
ただ笑顔で、楽しそうに不器用な音を奏でる光音の姿さえあれば、それだけでよかったのだ。
「今日頑張ったら、帰りに温かいココアでも飲もうね」
「失敗しても大丈夫。お母さんは光音のバイオリンが一番好きだよ」
喉の奥を締め付ける後悔とともに、かけられなかった言葉たちが溢れ出す。
琴葉は両手を強く握りしめ、静まり返った冬の夕闇に向かって祈った。
もう二度と、あの子を自分の理想で縛りつけたりしない。あの子の歩幅で、あの子のテンポで、どこまでも一緒に歩んでいく。
「どこにいるの、ヒカリ……。お母さんが間違っていたわ。だから……お願い、無事に帰ってきて……!」
母の痛切な叫びと誓いは、冷たい冬風に乗って、光音が踏み込んだであろう未知の異世界の空へとどこまでも響き渡っていった。
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