2.6 トニカを信じて、新たな旅立ち
「——ヒカリ」
アルコは指揮棒を胸に当て、静かに、けれど凛とした声で言いました。
「あなたが今救ったのは、この小さな教会の中での不協和音に過ぎません。ノエル王国の各地では、人々の『心音(トニカ)』や『テンポ』だけでなく音楽そのものを狂わせる恐ろしい魔物たちが解き放たれ、世界が冷たい冬の静寂に呑まれようとしています。王国を救うためには、遥か西の果て……深い谷の向こうに隠された『王立図書館(響きの文庫)』を目指さねばなりません。そこには、音の呪いを打ち払う最高峰の楽譜が眠っているのです」
「……西の果て。図書館……」
「ええ。あなたには、そこへ向かう冒険の旅に出てもらわねばなりません」
その言葉を聞いた瞬間、ヒカリはブルンッと強く首を横に振りました。
「むりだよ……っ! わたし、まだバイオリン始めたばかりだもん! 旅になんて出たくない!」
ヒカリの声は震えていました。
「ここではバルタザールさんが助けてくれたから弾けただけだよ。だから、もっとここにいて、バルタザールさんの元でちゃんと演奏の練習をしたい! せめて、一緒に旅をしてくれる人間の仲間を見つけてからじゃないと……一人でなんて、絶対にこわいよ……!」
葛藤と恐怖で、ヒカリの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちそうになりました。
見知らぬ世界。大きすぎる目的。ヒカリはただの小学生で、たった一人で世界を救うなんて、荷が重すぎたのです。
「ヒカリちゃん……」
バルタザールは困ったように、けれど深くあたたかい瞳でヒカリを見つめ、ゆっくりと首を振りました。
「本当ならば、わしがそなたに付き添って、手取り足取り教えてやりたい。……だがな、ヒカリちゃん。わしはもう300年も生きてきた老骨じゃ。この足で遥かなる西の果てまで歩く体力が、もう残っておらんのじゃよ」
「そんな……」
「私もです、ヒカリ」と、アルコが耳を伏せました。
「私は元宮廷音楽家だが、この『響きの聖堂』を守る結界猫。私やバルタザール様がここを離れれば、王国の中心から音のバランスが完全に崩壊してしまいます。私たちは、この周辺から動くことができないのです」
ふたりは一緒に行けない。
その事実が、ヒカリの心をさらに重く、冷たくしました。足がすくんで、一歩も外に出たくありません。
「ですが、ヒカリ。あなたを丸腰で送り出すようなことはしません。まずはこれを受け取ってください」
アルコは小さな肉球で、輝く宝物をヒカリに差し出しました。
「『王国の北部地図』。王立図書館への地図じゃ。危険な場所や、試練の道筋が記されている」
ヒカリは震える手で、古い地図を受け取りました。
「そして、わしからはこれじゃ」
バルタザールが、透き通った星の形をした琥珀色の固まりをヒカリの手に握らせました。
「これは『星晶の松脂』じゃ。これを、そなたの弓の毛にたっぷりと塗っておきなさい」
「松脂……?」
「そうじゃ。ヒカリちゃん、道に迷った時、どうしても一人で立ち向かうのが怖くなった時は……ためらわずに弓を構え、この松脂のついた弓で音を鳴らしなされ。そうすれば……必ず、そなたの力になるはずじゃ」
バルタザールが多くを語らず、ただ優しくヒカリの頭を撫でました。
なぜ松脂が力になるのか、ヒカリにはまだ分かりません。けれど、その温かい手のひらの感触が、少しだけヒカリの凍ついた心を溶かしました。
(こわい……。)
ヒカリはうつむいたまま、唇をギュッと噛み締めました。
不安の塊は完全には消えません。元気も出ません。
けれど、脳裏に浮かぶのは、この世界に来て初めて鳴らした澄んだ音色と、その音に救われて嬉しそうにしている小さなゴレムとチクタクの姿でした。もし自分がここで立ち止まったら、困っている誰かの「音楽」はずっと狂ったままで、悲しい思いをするのかもしれない。
ほんの小さな、ロウソクの火のような「使命感」。それが、ヒカリの背中をかろうじて支えていました。
「……いく」
消え入りそうな声で、ヒカリはぽつりと呟きました。
ゴレムが心配そうに「キュル……」と鳴いて、ヒカリの肩にちょこんと飛び乗ります。チクタクは心地よい音でヒカリの周りを歩きました。
ヒカリは松脂と地図をカバンに押し込むと、重たい足取りで教会の扉へと向かいました。まだ見ぬ外の世界は、冷たい雪と危険な試練に満ちています。軋むような重い扉に手をかけた、まさにその時でした。
バンッ!!
外から勢いよく扉が開かれ、冷たい風と共に二人の人影が教会に飛び込んできました。
「はぁ、間に合ったね! 出発前でよかった!」
突然の出来事に、ヒカリは驚いて尻餅をついてしまいました。
入ってきたのは、背に大きな剣を背負った青年と、革のコートを羽織り、日に焼けた肌をした活発そうな女性でした。
「ごめんよ、驚かせちまって。これから強い雪嵐が来る予報だったから、あんたが出発する前にどうしても合流したくて、王都から急いできたんだ」
女性がしゃがみ込み、不安で固まっているヒカリと目線を合わせて、にかっと笑いました。
「そんなに震えなくて大丈夫。あんたのことはアルコ殿から聞いてるよ。急に重い役目を背負わせてしまったけれど、もう一人じゃない」
あっけにとられるヒカリのそばへ、アルコが誇らしげに歩み寄りました。
「ヒカリ、彼らは王国に頼んで密かに手配していた、あなたの信頼できる旅の仲間です」
アルコはまず、大柄な剣士の青年を示しました。
「彼は王国の剣士、カイル。かつて辺境の魔物討伐隊で若くして隊長を務め上げた歴戦の実力者です。魔物の中には、残念ながら音楽では心を通わせられない、凶暴な者もいます。カイルはそうした物理的な脅威から、ヒカリを確実に護衛してくれるでしょう」
カイルは照れくさそうに笑うと、大きな手でヒカリの小さな手を握りました。
「音楽のことはよく分からないが、剣の腕には自信がある。君のことは絶対に守り抜くから、安心して背中を預けてくれ」
続いてアルコは、革のコートの女性を示しました。
「そしてこちらは、王国の『クリスマス学者』であるホリーです」
「クリスマス……学者?」
ヒカリが不思議そうに首を傾げると、ホリーがウインクをしました。
「この世界における『クリスマス』ってのは、ただのお祭りじゃなくて、人々の祈りや星の巡りが生み出す『奇跡の魔法』のことなんだ。私は元冒険者でね、世界中を渡り歩きながら、その奇跡の法則や今の異常事態を現場で研究してきたんだよ」
ホリーはヒカリのカバンから顔を覗かせている古い地図に目を留めました。
「アルコ殿から『北部地図』を受け取ったみたいだね。あそこは複雑で危険な道筋も多い。でも、元冒険者の私にかかれば完璧に読みこなせる。私の知識と経験で危険を予測して、あんたに一番安全で確実な道を示してあげるよ」
「それにね」と、ホリーは開け放たれた教会の外を指差しました。
「外には、たくさんの荷物を持てる頼もしいトナカイも待機させてある。長旅用のテントや食料、防寒具は全部あの子に任せておけばいいから」
教会の外を覗くと、立派な角を持った大柄なトナカイが「ブルル」と鼻を鳴らして待っていました。
その光景を見て、アルコは安堵の息をつきました。
「これで、前衛を担う剣士と、確かな道を切り開く元冒険者の学者、そして音楽を紡ぐヒカリ……素晴らしいパーティができましたね。わしもこれでようやく安心できます」
頼もしい仲間たち。荷物を持ってくれるトナカイ。そして肩にはゴレム、足元にはチクタクがいます。
「ああ、完璧な布陣だ。何も心配はいらないよ」とカイルも力強く頷きました。
それでも。
ヒカリの胸の奥にある冷たい不安が、完全に消え去ったわけではありませんでした。剣を握ったこともない自分が、本当にこのすごい人たちの足を引っ張らずにやっていけるのだろうか。自信なんて、これっぽっちもありません。足の震えだって、まだ少し残っています。
けれど。
(……この人たちと、一緒なら。なんとか、やっていける……かもしれない)
重圧に押しつぶされそうだった心に、わずかな隙間ができました。
足がすくんで出せなかった一歩を、彼らの存在がほんの少しだけ後押ししてくれたのです。不安の山を、小さな使命感がギリギリのところで越えた瞬間でした。
「……よろしくお願いします」
ヒカリはぎゅっと拳を握りしめ、小さく、けれどはっきりと頭を下げました。
「ヒカリ……!」
「ゆきなされ。そなたの『トニカ』を信じておるぞ」
アルコとバルタザールの温かい声に見送られながら、ヒカリは仲間たちに囲まれるようにして、教会の扉を越えました。
不安と寒さに身を縮めながらも、ヒカリの冒険の旅が、雪景色の中へと静かに幕を開けたのです。
一人きりの旅に怯えるヒカリが少しでも心強く進めるよう、
頼れる剣士と知識豊富なクリスマス学者という、2人の新しい仲間をパーティーに加えました。




