2.5 勝利の余韻と、小さな相棒
暴風雪が吹き荒れていたのが嘘のように、静寂が戻った古い教会の聖堂。砕け散った氷の破片がステンドグラス越しに射し込む夕陽を浴びて、キラキラと黄金色に乱反射していた。
暖かで優しいオレンジ色の光が、埃の舞う冷たい石畳をゆっくりと撫でていく。
「ハァ……ハァ……っ、勝てた……!」
ヒカリは、愛用のバイオリンを胸に抱きしめたまま、呆然と自分の手のひらを見つめた。
弓を握っていた右手の指先はほんのりと赤く上気し、心地よい疲労と微かな痺れが残っている。けれど、あんなにカチコチに凍ついていた心と体は、まるで温かいコーンスープを飲んだあとのように、ぽかぽかとした熱で満たされていた。
(わたし……弾けたんだ。メトロノームに追いかけられるんじゃなくて、自分の足で。一人でも……!)
ヒカリの胸の奥で、確かな自信の種が小さく芽吹いていた。
高橋先生の冷たいため息も、もう今のヒカリを縛り付けることはできない。
バイオリンは、自分を評価して苦しめるための恐ろしい道具なんかじゃなかった。自分の内なる心音を広大な世界へと届け、仲間たちと共鳴して笑い合える、最高の『魔法の鍵』だったのだ。
その時、光がすっかり収まった教会の床で、「コトリ」と小さな音が響いた。
「え……?」
ヒカリが足元に視線を落とすと、そこには手のひらサイズの硬くて丸い石人形がいた。先ほどまで見上げるほど巨大だったあの恐ろしい『ガチガチ・ゴーレム』の成れの果てだ。
全身を覆っていた鋭い氷のトゲはすっかり溶け落ち、丸みを帯びた黒い岩の体になっている。短い手足を一生懸命に動かしてトリトリ、トリトリと不器用な足取りで歩いてくると、ヒカリの靴のつま先にすり寄り、嬉しそうに丸い頭をスリスリと押し付けてきた。
「あれ? もしかして、さっきのゴーレム……なの?」
「フォフォフォ。いかにも」
バルタザールが、弓を杖代わりにしながら満足そうに白い髭を揺らした。
「どうやら、そなたの奏でた変奏曲『大きなゴーレム』という重厚な響きに、すっかり惚れ込んでしまったようじゃな。自分の恐ろしくて不器用な存在を、あんなに堂々としたカッコいい音楽に変えてもらい、受け入れてもらったのが嬉しかったのじゃろうて。お名前は『ゴレム』かな?」
ヒカリはそっとしゃがみ込み、小さくなった『ゴレム』を両手ですくい上げるようにして手のひらに乗せた。石の体は思いのほか温かく、命の鼓動のように小さく脈打っているのが伝わってくる。
「ふふっ……キミ、ちっちゃくなったらすごく可愛いね」
「キュルルッ!」
ゴレムは心地よさそうに石の体を震わせると、ヒカリの手のひらの上でズン! ズン! と小さく、リズムよく足踏みをして見せた。
すると、ゴレムの足踏みに呼応するように、教会の隅から「チク……タク……、チク……タク……」と、穏やかで心地よい音が近づいてきた。
「あ……あなたは……」
ヒカリの目が丸くなる。そこにいたのは、先ほどまで冷酷な裁判官のようにヒカリを追い詰めていた『時刻の精霊・チクタク』だった。
しかし、その姿は劇的に変化していた。無機質で冷たい金属だった外装は、年月を経たアンティーク家具のような、温かみのあるマホガニーの木目調へと変わっている。振り子の先には小さな星型の飾りがつき、ヒカリの心臓の鼓動(トニカ)と同じ、ゆったりとした安心感のあるテンポで揺れていた。
そして何より驚いたことに、チクタクの底面には真鍮でできた小さなゼンマイ仕掛けの足が生えていたのだ。
チクタクは、トテテテ……と可愛らしい足音を立ててヒカリの足元まで歩いてくると、ヒカリの手のひらにいるゴレムを見上げた。ゴレムが「キュル?」と短い腕を差し出すと、チクタクは少し助走をつけてピョーンと跳躍し、ゴレムの丸い肩の上にちょこんと着地した。
「チクタク! ポッポッ!」
肩の上に定位置を見つけたチクタクは、まるで誇らしげな小鳥のように鳴き、振り子を揺らした。ゴレムも満更ではないらしく、頭に載せた小さな相棒を落とさないように、そっと首を傾けている。
「まぁ、なんて愛らしいコンビでしょう」
白猫のアルコがふわりと宙を舞い、ヒカリの目線の高さまで降りてきて優しく目を細めました。
「ヒカリ、チクタクもあなたの音楽の魔法に当てられて、本来の『優しい伴走者』の姿を取り戻したのです。これからは、彼らがあなたの頼もしい旅の仲間になってくれますよ」
「仲間……ゴレムと、チクタクが?」
「ええ。特にチクタクは、これからあなたが新しい曲——未知の世界の魔法に挑む時、非常に重要な『練習のパートナー』となるでしょう」
アルコは銀の指揮棒で、チクタクの星型の振り子をツンと突いた。
「本番の演奏で自由な魔法を放つためには、まず自分の中にブレない基礎の骨組みを作る必要があります。道に迷いそうになった時、焦ってリズムが崩れそうになった時、チクタクは決してあなたを急かしたり責めたりしません。ただ隣を歩き、『ここが君のトニカ(我が家)だよ』と、正確で優しい足音で導いてくれるはずです」
「私の、練習のパートナー……」
ヒカリは、ゴレムの肩で心地よく揺れるチクタクの振り子を見つめた。あの冷たくて恐ろしかったメトロノームの音が、今はまるで心に寄り添う親友の足音のように聞こえる。
ヒカリは少しだけ頬を緩め、ゴレムとチクタクを愛おしそうに撫でた。
でも——その笑顔はどこか力なく、水面に落ちた波紋のように、すぐにスッと消えてしまった。
ヒカリはゴレムたちをそっと床に下ろすと、再びバイオリンをギュッと胸に抱きしめ、うつむいてしまった。オレンジ色の夕陽が、ヒカリの小さな背中に長い影を落とす。
「ヒカリ……? どうしました?」
アルコが心配そうに覗き込む。バルタザールも、ヒカリの顔を覆う暗い雲に気づいて眉をひそめた。
「あのね……わたし、もっとバイオリンが上手になりたい。色んな曲を弾いて、もっとたくさんの魔法を使ってみたい。でも……」
言葉にしようとすると、喉の奥がキュッと締まった。
ヒカリの胸の中には、さっきまでの高揚感の下に隠れていた、言葉にできないほどの「大きな不安の塊」が、黒い渦を巻いて広がっていたのだ。
学校の音楽室や、安全なレッスン教室での演奏とは違う。ここは、文字通り命がけの魔法の世界だ。
さっきはバルタザールの助けがあり、夢中で言葉を唱えたから、たまたま上手くいって勝てただけかもしれない。もし次に、ガチガチ・ゴーレムよりもずっと強くて、もっと怖い魔物が目の前に現れたら?
その時、自分の音が少しでも震えてしまったら?リズムが狂って、魔法が発動しなかったら?
もし、自分の音が誰にも通じなかったら——?
(……怖いよ)
バイオリンを抱きしめる指先に、再びギュッと力が入る。
一つ壁を乗り越えたからこそ見えてしまった、果てしなく続く険しい道のり。
本当の試練は、まだ始まったばかりなのかもしれない。夕闇が少しずつ近づく聖堂の中で、ヒカリは自分の心の奥底に巣食う、新たな恐怖と静かに向き合っていた。




