2-1 瑪瑙さん
夏休みが近いある日のこと。私はどうやって休みを過ごそうかと考えていた。数学オリンピックは月末。それまでは割と暇だ。夏休みの宿題をやってもいいのだが、多分早めに終わってしまうだろう。私自身の能力を過信しているだろうか? ともかく数学オリンピックがあるし、また狙われても困る。どこかに出かけるのは、今年はやめておいたほうがいいだろうか。
授業はもう短縮になっている。私はと言うと、夏休みの過ごし方で頭がいっぱいだ。本当なら海やプールに行きたいのだが、何せ男装しているからな……。高校の友人は男ばかりだし、結局男装しているとなると、夏のレジャーは遠慮するしかない。
ひとりで家にいてもつまらないが、予定もない。せいぜい図書館に行くくらいだ。
今日もホームルームに出席していると、授業終わりに先生に手招きされた。呼び出され、職員室に行くと、担任は難しい顔をしていた。
「小城、さっそくなんだが……君は今ひとり暮らしなんだよな」
「あっ、はい。両親も研究機関に勤めていまして」
「夏の間、君は家にひとりなのか? ちょっと心配でな」
「そうは言われましても……」
「だよな」
ひとりだと狙われそうだと思われているのか。確かに不安ではある。この間みたいに、車で連れ去られそうになるかもしれないし。
「警察やシークレットポリスに頼みたいところだが、イチ民間人だしなあ」
うちにSPを雇う金はないし、私は数学オリンピックに出るだけの一般市民だからな。特別に警護はできないのだろう。
「まぁ大丈夫ですよ、多分」
私が笑っても、担任は頭を抱えるだけだ。
「君は楽天主義だな。学校としては貴重な成績優秀者を危険な目に遭わせたくないのだが」
「わかってます」
学校側の気持ちはよく伝わっているが、私個人に何かできるわけじゃないからな。そう思っていると、先生は1枚の名刺を差し出した。
「……なんです? これ」
「先日刃傷沙汰があったときに来た警察官の名刺だ。夏休みの警護に関して、少し連絡したらいいかもしれない」
「大げさな」
「念には念をだ」
私は先生から名刺を受け取る。『滝瀬瑪瑙』と書かれていた警察官の名刺。ーー滝瀬って。
「うちのクラスの翡翠くんと同じ名字ですけど」
「ああ、従姉妹らしいよ。滝瀬は同じクラスだし、話が早いだろう?」
「まぁ……」
だけど私は翡翠くんに女であることは内緒にしている。小声で先生にこっそり確認をする。
「先生、私の性別、翡翠くんには言ってないんですけど……」
「あぁ、わかっている。瑪瑙さんにも正体は告げていない。あくまでも君の性別はトップシークレットだ。下手に敵を作る必要はない」
私は先生を見つめた。滝瀬瑪瑙さんは、20代の女性警察官らしい。私の正体は知られていないけど、女性警察官のほうが同性だしありがたい。
私は放課後に瑪瑙さんへ連絡することを約束して、職員室を出た。
ーースマホで、瑪瑙さんに連絡する。初めて電話で緊張するが、瑪瑙さんは明るい声だった。
『あ、君が小城真珠くん? 翡翠から聞いてるわ』
「俺、警護とかよくわからないんですけど……」
『そのことについて、話せないかな? カフェ・ドルフィンで』
誘われた私は、数日前と同じように、ドルフィンに向かっていた。翡翠くんの従姉妹ってことは、瑪瑙さんも『滝瀬さん』なんだよな。滝瀬さんが6人もいたら紛らわしい。
マンション1階のドルフィンのドアを開けると、先日と同じように、琥珀さんと御影さんが出迎えてくれた。
「真珠くん、待ってたよ。いらっしゃい」
「お邪魔します。瑪瑙さんは?」
「まだ来てない」
御影さんがクールに告げると、琥珀さんがメニューを持ってきた。
「今日はクリームソーダなんてどう? 暑い日にバニラアイスと炭酸はやっぱり鉄板だからね」
「じゃあそれを」
オーダーすると、奥から翡翠くんが出てきた。
「真珠、瑪瑙さんと警護の打ち合わせだって? 成績優秀者も大変だね」
翡翠くんはどことなく他人事だ。同じクラスだけど、そこまで密接な関係でもないからな。
同じく帰ってきたばかりの鍾くんも、カウンターで雑誌を読んでいた。
「数学オリンピックってそんなにすごいの?」
鐘くんの質問に、御影さんが答える。
「すごいんじゃねーの。命を狙われるレベルの頭脳だからな」
「真珠、狙われてるの?」
中学生で年下の鐘くんに呼び捨てにされる。私は文句を飲み込んでうなづいた。
「先日の刃傷沙汰で瑪瑙さんが警護に当たることになったらしい」
鐘くんと同じくカウンターに座っていた水晶さんが言うと、また扉が開いた。瑪瑙さんだ。車が店の前に止められている。
「琥珀くん、こんにちは。小城くんは……と」
私は立ち上がって、瑪瑙さんに挨拶する。長い髪をクリップで留めて、Tシャツをラフに着ているのが似合っている。
「小城真珠です」
「滝瀬瑪瑙。ふぅん、小柄で華奢だね。これは誘拐しやすそう……」
「瑪瑙、めったなこと言うなよ」
御影さんがいさめると、瑪瑙さんは笑った。
「……ともかく。真珠くんの警護なんだけど、一般市民の護衛を警察官がするって訳にはいかないのよ。だけど、真珠くんはひとり暮らしって話だからね」
民間のボディーガードを雇えるだけの金持ちだったらよかったんだけど、私にそんな金はないことだし。
瑪瑙さんは、私に夏休みの予定を訊ねる。私の予定は月末にある数学オリンピックくらいだ。だけど問題はそれまでの警護。
「真珠くん、フェルマーの最終定理も解いたって聞いてるけど?」
「はぁ、まぁ……解けたから何だって感じですけどね。懸賞金もらってないですし」
「謙遜するなよ」
翡翠くんがぼそりとつぶやくと、瑪瑙さんは私の前に座って身を乗り出した。
「天才なんだ?」
「いや……」
「だから謙遜するなって。天才」
翡翠くんに天才呼ばわりされる。悪口ではないけども、なんだかそう言われると居心地が悪い。
翡翠くんは私のこと、どう見ているんだろう。天才で、従姉妹に警護の相談をしているクラスメイトなんて、厄介でしかないと思う。
「はい、クリームソーダ」
運ばれてきた飲み物に付いていたチェリーを口に入れる。種を出すと、私は翡翠くんをちらりと見つめた。




