爺さんの過去と、灰色の話
雨が降った。
朝から本降りで、山道は泥になっていた。俺は稽古があると思って早めに家を出たが、山の入り口で爺さんに会った瞬間、「今日はない」と言われた。
「雨の日は」
「滑る。怪我をする前に止めろ」
「わかりました」
「ただ、ぼーっと帰るな」
爺さんは山のふもとの小屋を顎で示した。木が生い茂って半分隠れているような、小さな小屋だった。
小屋の中は、思ったより広かった。
炉があって、火が燃えていた。棚に薬草が吊るされていて、壁に古い剣が一本だけかけてあった。刃はなく、鞘もなく、ただ柄と刀身だけが釘に引っかかっていた。
爺さんは炉の前の椅子に座って、茶を淹れた。俺にも出してくれた。湯気がうまかった。
「座れ」
俺は近くの木箱を引っ張って腰を下ろした。
雨の音がした。屋根を叩く、一定の音。
「剣は、いつ始めたんですか」
聞いてみた。聞いていいかどうかはわからなかったが、雨の日の小屋で炉の火を見ながら黙っているのも奇妙な気がした。
「十三のとき」
「遅くないですか」
「遅い」
爺さんは茶をすすった。
「だから、人の三倍動いた」
「三倍」
「三倍では足りなかった。五倍動いた。それでようやく、並みの奴に追いついた」
「S級になったんですよね」
爺さんの目が、少し動いた。
「誰に聞いた」
「村の人から」
「ふん」
長い沈黙があった。
俺は炉の火を見ていた。爺さんも火を見ていた。
「灰の剣聖、という名前も聞きました」
「余計なことを言う村だ」
「自分でつけた名前じゃないんですか」
「つけるか。他人がつける」
爺さんは茶を持ったまま、椅子に深く座り直した。
「灰色というのは、どちらでもない色だ。黒でも白でもない。光でも闇でもない。輝きのない色だ」
「嫌なんですか」
「嫌ではない。ただ、俺はそういう生き方をしてきた、と思っている」
「どちらでもない、という」
「正義のために戦ったわけでもない。金のためでもない。強くなりたかっただけだ。それだけのために、色々なものを捨てた」
「なぜ稽古をやめたんですか」
「くたびれた」
「強さに、ですか」
「全部に」
爺さんは壁の剣を見た。
「ある日、もういいと思った。それだけだ」
「後悔はないんですか」
「ある」
即答だった。
「後悔はある。だが、それが何かは言わない」
しばらくして、爺さんが言った。
「お前に教えているのは、剣だけじゃない」
「わかっています」
「本当にわかっているか」
「わかっていない部分の方が多いです」
爺さんはそこで、初めて、はっきりと笑った。
短い笑いだったが、確かに笑っていた。
「正直なことだ」
「嘘をついても仕方ないので」
「それはいいことだ。嘘をつく奴は、自分にも嘘をつく」
雨は昼過ぎに上がった。
俺は小屋を出て、山道を戻った。
振り返ると、爺さんが小屋の入り口に立っていた。
「明日は来い」
「はい」
「遅れるな」
「はい」
爺さんは中に戻った。俺は坂を下りた。
雨上がりの山は、空気が違った。冷たくて、澄んでいて、遠くの木が湿って光っていた。
悪くなかった。
今の生活が、思っていたより悪くなかった。
そのことに気づいたのは、今日が初めてではなかった。でも今日ほどはっきり思ったのは、初めてだった。
家に戻ると、エルナが縁側に座っていた。
「稽古、なかった?」
「うん。雨だから」
「私も来たけど、帰れって言われた」
「そっか」
エルナは雨上がりの空を見ていた。雲の端が橙色になり始めていた。
「ねえ、アレン。グレンさんって、昔どんな人だったんだろうね」
「今日、少しだけ聞いた」
「え、教えてくれたの? 珍しい」
「珍しかった。雨の日だったからかもしれない」
「何を話してたの」
「昔の話。剣を始めたのが遅くて、でも量でカバーしたとか」
「へえ」
エルナはしばらく黙った。
「後悔、あるって言ってた」
「うん?」
「聞いたら、あるって即答された。でも何かは言わなかった」
エルナはそれを聞いて、静かな顔をした。
「そっか。言わないこと、あってもいいよね」
「うん」
「言いたくないことって、たぶん大事なことだと思う」
「グレンさんはさ、なんでアレンに稽古つけてると思う?」
「わからない」
「なんとなく、見てほしいものがあるんじゃないかな」
「俺に?」
「うん」
俺は何も言わなかった。
爺さんが何を見ているのかは、まだわからなかった。でも見られているのは感じていた。値踏みではなく、別の種類の視線。言葉にしにくいが、それがある気がした。
「まあ、わかったらわかった時でいいか」
「そうそう。焦らなくていいよ」
エルナはそう言って、縁側から立ち上がった。
「じゃ、帰る。明後日の稽古、よろしく」
「何がよろしくなんだ」
「一緒に頑張ろうってこと」
エルナは手を振りながら歩き出した。
俺は縁側に残って、空が暗くなっていくのを見ていた。
(次回)
第十話「最初の冬と、父の背中」
冬になった。雪は少なかったが、山は凍った。稽古はいつも通り続いた。ある夕方、父のガイが山道で爺さんと話しているのを、アレンは遠くから見た。ふたりは何を話していたのか。




