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風と、もう一人の生徒

エルナは、遅刻した。


 三分だった。山道の入り口で息を切らしながら現れて、「ごめん! 弟が靴隠した!」と言った。グレン爺さんは何も言わなかった。ただ、見た。エルナはその視線の重さに気づいて、少しだけ縮こまった。


「次は一分でも遅れるな」


「はい……」


「ではなく、はい、だ」


「はい」


(修正が速い。適応力がある。あと弟という存在は靴を隠すものらしい)




 爺さんはエルナに、最初から俺とは違うことをさせた。


 俺に課されたのは「立つ」こと、「歩く」こと、そして「魔素を感じること」だった。地味で、重くて、一日に一歩しか進まない感触のある稽古だった。


 エルナへの最初の指示は、走ることだった。


「あの木まで行って戻れ。全力で」


 エルナは一瞬きょとんとして、それから走った。


 速かった。本当に速かった。村で一番、というのは嘘じゃなかった。木まで駆けて、折り返して、爺さんの前に戻ってくるまで、俺の体感で十五秒もなかった。


「もう一度」


 またすぐ走った。


「もう一度」


 また走った。


(爺さんは何を見ているんだろう。速さそのものか、走り方か、それとも疲れ方か)




 五本目が終わった頃、爺さんがエルナを止めた。


「足はある。問題は頭だ」


「頭?」


「走るとき、何を考えている」


「……速く走ること、ですか」


「それは考えていない。体が勝手に動いている。考えているのは、何だ」


 エルナは少し黙って、言った。


「次のどこを踏むか、かな」


「それだ。それがお前の癖だ」


(先の地面を読んでいる。つまり注意が少し先に飛んでいる。風属性の素質を持つ者の特徴かもしれない——と言ったら言い過ぎだろうか)


「それは、悪いんですか」


「悪くはない。だが、そのままでは遅くなる」


「速くなるためには?」


「今を踏め」




 俺は自分の稽古をしながら、横目でエルナを見ていた。


 爺さんのことばを受けて、エルナは何度か走った。変わったのかどうか、見た目にはわからなかった。でも六本目の終わり、爺さんが「少しよくなった」と言った。それがどれほどのことかは、エルナ以上に俺にはわからない。


 俺は足の運びをまた繰り返した。昨日の一歩——音がしなかった一歩——を、もう一度探していた。


(見つけたはずなのに、見つからない。プログラムで言うと、再現しない不具合に似ている。確かに起きたのに、条件が揃わない)


「焦るな」


 いつのまにか爺さんが後ろにいた。


「焦っていません」


「焦っている。昨日の一歩をまた出そうとしている」


「……出そうとして、何が悪いんですか」


「昨日の一歩は、出そうとして出たか」


 俺は止まった。


 出そうとして、出なかった。出ようとするのをやめた瞬間に、出た。


「……出ようとして、出なかったです」


「そうだ」




 昼を回って、爺さんがふたりを並べた。


「並べ」


 俺とエルナが並んで立った。


 爺さんはその前に立って、ただ見た。特に何も言わなかった。俺たちも何も言わなかった。


 山の中は静かだった。風が来て、葉が鳴った。


「…………」


「なんですか?」


 エルナが先に聞いた。俺も聞きたかった。


 爺さんは何か言いかけて、止めた。


「いや」


「何を見てたんですか」


「なんでもない。続けろ」


(なんでもないとは言わせない見方だったと思う。でも聞けなかった。聞いていいことと、聞いていけないことの区別が、爺さんにはある気がした)




 稽古が終わって、山を下りた。


 エルナは元気だった。疲れているはずなのに、話すのをやめなかった。


「グレンさんって、最初ちょっと怖いと思ったけど、なんか面白いね」


「面白い?」


「なんか、ちゃんと見てる感じがする。適当じゃない」


「うん」


「アレンにもそう思う?」


「……何が」


「ちゃんと見てる感じ」


(俺に聞くのか、俺のことを、と思ったが、文脈的にはグレン爺さんの話だろう)


「思う」


「でしょ。だから、怖いけど嫌じゃないんだよね」


 俺はその表現が妙に正確だと思った。怖いけど嫌じゃない。何かを本当に教えようとしている人間と、そうでない人間の違いを、エルナは感覚でつかんでいた。




 村の入り口でエルナが立ち止まった。


「ねえ、さっきグレンさんが並ばせた時、何見てたと思う?」


「わからない」


「私は、なんか……ふたりの流れが見えた気がした」


「流れ?」


「うん。アレンのとき感じるやつ。あれが、私にも少しあった。グレンさんが見てたのって、もしかして、それかな」


(エルナは昨日から、俺の魔素の流れを「感じる」と言っている。今日は自分にも「少しある」と言った。それが風属性の感受性によるものなのか、それとも別の何かなのか)


「わからないけど……多分、気のせいじゃないと思う」


「だよね」


 エルナは少し空を見上げて、また歩き出した。


「なんかね、アレンと並んで立ったとき、すごく落ち着いた」


「……俺は、少し緊張した」


「なんで」


「なんとなく」


 エルナは笑った。


「正直だね」




 その夜、布団の中で俺は考えた。


 グレン爺さんは何を見ていたのか。ふたりを並ばせて、何も言わずに見ていた、あの時間は何だったのか。


 まだわからない。


 ただ、何かが始まっている気はした。始まりの輪郭が、少しずつはっきりしてくる感触だった。


(設計書がないまま書き始めたコードが、書いているうちに形を持ち始める。あの感覚に、少し似ていた)

(次回)

第九話「爺さんの過去と、灰色の話」


 ある雨の日、稽古が中止になった。グレン爺さんは珍しく、小屋の軒先に座って茶を飲んでいた。アレンがそこに来ると、爺さんは少しだけ昔のことを話した。「灰の剣聖」と呼ばれていた頃のことを。

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