土と根と、それから魔素
二週目が始まった。
夜明け前に山に入るようになった。爺さんに「遅い」と言われてから、目が覚めるタイミングが自然と早くなった。人間の体は、言われなくても学習する。前世のデスマーチも、最初は深夜まで起きているのがつらかったのに、そのうち身体が慣れてしまった。適応というのは、時に便利で、時に恐ろしい。
グレン爺さんは今日も岩の上にいた。
「来週も来い、と言ったろう」
「来ました」
「早いな」
「昨日より三十分早く出ました」
爺さんはなにも言わなかった。それが合格なのか不合格なのかは、わからない。
今日の課題は、足だった。
立ち方の次は、歩き方。ただし、爺さんの「歩き方」は俺が知っている歩き方とは全然違った。
「体重を移すな。運べ」
「違いがわかりません」
「移すのは、押すことだ。運ぶのは、乗せることだ」
(概念として理解はできる。でも体でやるのは別の話だ)
爺さんはゆっくりと一歩踏み出した。音がなかった。落ち葉の上を歩いているのに、音がしなかった。
「土を踏むな。土の上に乗れ」
俺はやってみた。べきっ、と派手な音がした。
「踏んだ」
「わかってます」
一時間、ひたすら歩いた。
山道を往復する。端から端まで歩いて、折り返して、また歩く。目標は「音を立てないこと」だったが、一時間たっても全然できなかった。
爺さんは途中から岩に戻って、目を閉じた。見ているのか寝ているのかわからなかったが、俺が何かできたときだけ目を開けた。
「今のは違う」
「どこが」
「右足が急いだ」
(急いだ、という言い方が面白い。足が急ぐ、という感覚を俺はまだ持っていない。足は俺が命令して動かすものだと思っていた。でも爺さんの言い方は、足がひとりで判断しているみたいだ)
「足が急ぐというのは、どういう感覚ですか」
「次の場所を探して、焦っている」
「足が、焦っている」
「そうだ。今いる場所より、次の場所を気にしている」
(現在地より次の処理を優先してバッファが溢れる。わりとよく見る設計ミスだ)
昼前に、爺さんが初めて別のことを言った。
「目を閉じろ」
俺は立ったまま目を閉じた。
「体の中に、何か流れているか」
感じる。ずっと感じていた。幼い頃から。血とも違う、熱とも違う、でも確かに何かが体の中を巡っている。
「はい」
爺さんの声が、少し変わった。
「どこを流れている」
「背中から入って、腕と脚に広がって……また背中に戻る感じです。心臓の近くが、一番多い気がします」
長い沈黙があった。
「……それを、魔素という」
「知っています」
「知っていたのか」
「子どもの頃から感じていました。ずっとそこにあったので」
また沈黙。今度はさっきより長かった。
「普通は感じない。大人でも、鍛錬なしには感じ取れない」
「そうなんですか」
「そうだ」
(それは初耳だった。俺にとっては空気や光と同じくらい当たり前に存在していたから、特別だという認識がなかった。感じない人がいるとは思っていなかった)
爺さんは立ち上がって、俺の前に来た。
「足の運びをやりながら、その流れを意識しろ。邪魔するな。ただ、感じていろ」
「歩きながら、魔素を感じる?」
「そうだ」
俺は歩き始めた。
最初は、別々だった。足の動きと、体の中の流れは、別のことだった。足は足で動いて、魔素は魔素で流れていた。
それが、十五分ほどたったとき。
右足を踏み出した瞬間、何かが——合った。
足が地面に乗る感触と、背中からの流れが腰を通る感触が、同じリズムになった。一瞬だけ。でも確かに。
(これか)
音がなかった。
落ち葉の上を踏んだのに、音がなかった。
次の一歩は、また音が出た。でも、あの一瞬が何だったのかは、かすかにわかった気がした。
「今のだ」
爺さんの声がした。目を開けていなかったが、聞こえた。
「今のが、どういうことかはまだ説明するな。体に覚えさせろ」
「はい」
「理解しようとするな。先に体に聞け」
(それは俺の最も苦手なことかもしれない。理解できないものを、理解しないまま続ける。でも今日の一歩は、理解する前に体が先に知っていた)
午後になって、エルナが来た。
今日は誘っていなかった。でもエルナは「なんとなく来た」と言った。
「なんとなく、アレンがいる気がして」
「……気のせいじゃないのか」
「当たってたじゃん」
反論できなかった。
エルナはいつもの切り株に座って、俺の稽古を眺めていた。爺さんはエルナを見て、一瞬だけ目を細めた。それ以上は何も言わなかった。
稽古が終わる頃、エルナが立ち上がった。
「グレンさん、私も教えてもらえますか」
俺は少し驚いた。エルナが言いそうで言わなかったことを、ついに言った、という感じがした。
グレン爺さんはエルナを見た。黙って見た。しばらくして、言った。
「剣を持ったことはあるか」
「木の棒なら」
「足は速いか」
「村で一番です」
「ふん」
また沈黙。
「月曜と木曜、ここに来い。アレンの邪魔をするな」
「はい!」
(予想外だった。爺さんがあっさり了承するとは思わなかった。でも考えてみれば、「見てろ」と言った時点で、エルナのことも見ていたのかもしれない)
エルナは満面の笑みだった。俺は複雑な気持ちだった。うれしいような、なんとなく気恥ずかしいような。
「やった! じゃあアレン、一緒に頑張ろうね」
「……うん」
山を下りながら、エルナが言った。
「ねえ、アレン。今日の稽古の途中でさ、なんか光ったじゃん」
「光った?」
「うん。一瞬だけ。足のあたりが、なんか、きれいに流れた感じがした」
俺は歩を止めた。
「エルナ、それ……見えたのか?」
「見えたというか、感じた? なんか、風みたいな感じで。気持ちよかった」
(エルナに風属性の適性がある。それと関係があるのかもしれない。でも、俺の体の中の魔素の流れが、外から感じ取れるとしたら——)
「それ、あまり人に言わない方がいいかもしれない」
エルナは首を傾けた。
「なんで?」
「まだわからないけど。とりあえず」
「……うん、わかった」
エルナは少し考えてから、また歩き出した。
「でも、きれいだったよ。ほんとに」
俺はその言葉の意味を、うまく処理できないまま、坂を下りた。
(次回)
第八話「風と、もう一人の生徒」
エルナが稽古に加わった。グレン爺さんの教え方は、アレンとエルナで、少し違った。アレンには「土台」を、エルナには「速さ」を。ふたりが並んで立つと、爺さんはじっとそれを眺めて、なにか言いかけてやめた。




