稽古、はじめます
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頼んだのは、夕暮れだった。
グレン爺さんが山を下りていくのを見送りながら、俺は勝手に口を開いていた。前世で言えば、会議が終わってすでに帰り支度を始めた上司を呼び止める感覚に近い。我ながら空気を読まない選択だとわかっていた。
「爺さん。俺に、何か教えてほしい」
老人の背中が止まった。
「うるさい」
それだけだった。振り向きもしなかった。そのまま山道を下りていって、木々の間に白い頭が消えた。
俺はしばらくそこに立っていた。
(返答として成立しているのかどうかすら不明瞭だが、拒絶の感触はなかった。むしろ、なんとなく、受け取られた気がした)
前世の俺は、要件定義が苦手だった。「何がしたいか」をうまく言語化できない依頼者と何度も摩擦を起こした。でも今回の俺の依頼は、逆の意味でひどかった。「何か教えてほしい」なんて、仕様書として最低だ。目的不明、成果物不明、期限不明。普通なら突き返されて当然だ。
だから、翌朝に山道で爺さんが立っていたときは、正直、驚いた。
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夜が明けたばかりの山は、冷たかった。
秋も深まってきて、草の露が足首を濡らす。俺はいつもよりずっと早く家を出た。理由はない。ただ、なんとなく、そうしなければいけない気がした。
山道の途中、いつもグレン爺さんが腰掛けている岩の手前に、人影があった。
立っていた。木の棒を地面に突いて、ただそこに立っていた。
「遅い」
「……おはようございます」
「日が昇ってから山に入るな。獣も人間も、夜明け前に動く」
それが初日の、最初の言葉だった。
(教訓として受け取るべきか、単なる愚痴か。判断保留)
爺さんは俺の持ってきた木の棒――昨日、家の裏の雑木林から適当に拾ってきたやつ――をじろりと見た。長さが足りなかったらしく、無言で自分の杖を差し出してきた。
「背丈に合わせろ。肩幅ほど短くていい」
「削るんですか」
「折れ」
俺は膝でへし折った。断面が汚かったが、爺さんは何も言わなかった。
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稽古の内容は、地味だった。
拍子抜けするくらい、地味だった。
まず立ち方。両足を肩幅に開いて、膝をわずかに曲げる。体重を足の裏全体に乗せる。爺さんは俺の周りをゆっくり歩きながら、肩を指で押したり、腰の位置を手のひらで直したりした。
「力を抜け」
「抜いてます」
「抜けていない」
(客観的に判定できないのがつらいところだ)
十分ほどその姿勢をキープしていると、太ももの前側が震えてきた。爺さんは岩に腰掛けて、遠くの山を眺めていた。
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次は呼吸。
「腹で吸え。胸を動かすな」
言われた通りにやろうとすると、どうしても肩が上がる。爺さんは俺の肩に手を置いて、静かに押さえた。
「ここじゃない。ここだ」
腹を指した。
俺は前世でも、緊張すると浅い呼吸になるタイプだった。デスマーチの深夜、画面の前で気づいたら息を止めていたことが何度もある。(呼吸というのは意識しないとすぐに乱れる。そして乱れていることにも気づきにくい。割と根本的なバグだと思う)
吸って、止めて、吐く。
それを繰り返す。山の空気は冷たくて、吐くたびに白い息が出た。
「剣はまだ教えないのか、と思ってるだろう」
「……少し」
「先に体を作れ。土台のない家は建てるな」
(仕様の前に環境構築、か。それは確かに正論だ)
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午前中が終わる頃、爺さんは初めて木の棒を構えてみせた。
大げさな動作は何もなかった。ただ、棒を片手で持ち上げて、体の前に置いた。それだけなのに、形が全然違った。空気が変わったような気さえした。
「構えには、力がいらない。自然に戻れる場所に置け」
「自然に戻れる場所」
「どこからでも動ける。どこへでも移れる。そういう場所だ」
俺は言われた通りに棒を持った。どこに置いても、しっくりこない。
「おかしいです。どこが『自然』なのかわからない」
「そうだ。最初はわからなくていい」
爺さんは少しだけ笑ったように見えた。見えただけかもしれない。
(「わからなくていい」というのは、意外と難しい言葉だ。わかっていない状態を許容しながら動き続けるというのは、完璧な仕様書を求めたがるエンジニアには特に向いていない)
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「爺さんは、魔法は使わないんですか」
唐突な質問だったと思う。でも、ずっと気になっていた。
「使わん」
「魔素は?」
爺さんの目が、少し動いた。
「……お前は、魔素が見えるのか」
「見えるというより、感じます。自分の中を流れているのはわかります。大気中のも、なんとなく」
「ふん」
しばらく黙った後、爺さんは言った。
「魔法は使わん。だが、魔素を知らんわけでもない」
棒を持ち直しながら続ける。
「剣士でも、体の中の魔素をうまく通せる者は、そうでない者より長く動ける。疲れにくい。剣が、少しだけ速くなる」
「魔素を、体の動きに乗せるということですか」
「難しく言うな。ただ、流れを邪魔しないようにする。それだけだ」
(入力と出力の間を、ノイズなく通す。ハードウェアとしての体を最適化する。そういう理解で合っているのかは、まだわからないが)
「わかりました」
「わかった気になるな」
「……はい」
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昼を過ぎた頃、山道の下の方から声がした。
「アレン! いるー?」
エルナだった。
赤みがかった茶色の髪が木々の間から現れて、俺の顔を見つけると大きく手を振った。約束していた。先週、グレン爺さんと一緒に山を歩く日にエルナを誘ったのだ。
「来たよ! って、何やってるの」
エルナは俺と爺さんを交互に見た。
俺はぼろぼろだった。立ち方と呼吸と棒の構えだけで、半日かけてぼろぼろになっていた。全身が微妙に震えている。汗も出ている。なのに剣らしいことは何一つしていない。
「稽古」
「……稽古? それだけで?」
「それだけで」
エルナは納得しているのかしていないのかわからない顔をして、グレン爺さんを見た。爺さんは相変わらず岩の上で遠くを見ていた。
「あの、グレンさん。私は何もできなくていいですか」
「お前は見てろ」
「はい」
エルナは素直に近くの切り株に座った。俺は少し意外だった。エルナはもう少し食い下がるかと思っていた。
「アレン、顔赤いよ」
「わかってる」
「でも、なんか……」
エルナは言いかけて、止めた。
「なんか?」
「なんでもない。続けて」
(エルナが言葉を途中で止めるのは珍しい。何を見たのかは、わからなかった)
グレン爺さんが立ち上がった。
「もう一度。構え」
俺は棒を持った。
まだ、どこが正しいのかわからない。
でも、わからなくていいと、今日教わった。
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山を下りる頃、空は橙色に染まっていた。
エルナは俺の隣を歩きながら、さっき止めた言葉の続きを言った。
「さっきね、アレンのこと見てたら、なんか、でかくなった気がした」
「……七歳だぞ」
「背の話じゃないよ」
エルナは少し先を向いたまま言った。
「うまく言えないけど、そういう感じ」
俺は何も言わなかった。
(前世で誰かにそういうことを言われたことが、あったかどうか。思い出せない。思い出せないということは、たぶん、なかった)
山道の出口で、グレン爺さんが立ち止まった。
「来週も来い」
「はい」
「遅れるな」
「はい」
爺さんは何も言わずに歩き出した。白い頭が夕暮れの道に消えていく。
エルナが小声で言った。
「あの人、ちょっと怖いね」
「うん」
「でも、いい人っぽい」
「うん」
俺たちは並んで坂を下りた。
足が痛かった。腕も痛かった。何もしていないのに、全身が重かった。
それが、悪くなかった。
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(次回)
第七話「土と根と、それから魔素」
グレン爺さんの稽古は二週目に入った。今度は、足の運び方。そして体の中の魔素を「感じる」練習が始まる。アレンが初めて「これかもしれない」と思った瞬間、エルナがとんでもないことを言い出した。




