父さんの話
三日後の夕方、稽古から帰ると、父さんが玄関先の石段に腰を下ろしていた。
手には何も持っていない。畑仕事の帰りでもなさそうだった。ただ、俺が来るのを待っていた、という座り方だった。
「アレン」
「はい」
「明日は稽古を休め。俺と山へ行く」
それだけ言って、父さんは立ち上がった。理由は言わない。聞き返しかけて、やめた。爺さんの言葉が頭をよぎったからだ。数日のうちに、あいつは話すと決めている。
台所から、母さんが顔を出した。
「お弁当、作っておくわね。薬草茶も」
母さんは何も聞かなかった。聞かないまま、少しだけ長く、俺の頭を撫でた。薬草の匂いがした。
翌朝、村はずれの分かれ道で、エルナが待っていた。
朝の稽古が休みだと聞いて、わざわざ走ってきたらしい。息が少し上がっている。
「どこ行くの」
「父さんと、山」
「ふうん。……あたしも、行きたい」
一瞬、言葉に詰まった。父さんが、後ろでこちらを見ている。何も言わない。ただ、目だけが「好きにしろ」と言っていた。
「今日は、二人で行く。帰ったら、話す」
「絶対だよ」
「絶対」
エルナは唇を尖らせたが、すぐに、にっと笑った。
「じゃあ、あたしは爺さんの薪、割っとく。風で!」
「割れないだろ」
「割れるまでやる!」
走り去る背中が、朝の光の中で、小さくなった。
山道は、霧が薄く残っていた。
父さんは、先を歩いた。口数の少ない人だが、今日は輪をかけて少なかった。木の根を跨ぐときだけ、振り返らずに左手を後ろへ出す。掴め、という合図だ。俺はその手を握らずに、ほんの指先だけ触れて、自分の足で越えた。
爺さんの小屋とは逆の、西の尾根筋だった。道は途中で獣道になり、やがて岩場になった。
父さんが足を止めたのは、せり出した岩棚の上だった。
眼下に、ミレス村が見えた。屋根が豆粒みたいに並んでいる。畑の緑、川の白、煙。俺が八年暮らした場所が、手のひらに載るくらいの大きさで広がっていた。
「ここだ」
父さんは、岩に腰を下ろした。
「冬に、爺さんと話したのは。……座れ」
隣に座った。岩は冷たくて、湿っていた。
「俺には、魔素が見えん」
父さんは、村のほうを見たまま言った。
「弱い火を十年磨いた。それでも、見えるようにはならなかった。見える者の世界が、どんなものなのか、俺は今でも知らん」
「はい」
「だが、お前が生まれた日のことは、覚えとる」
父さんの右手が、膝の上で、ゆっくり開いた。
「産婆に渡されて、抱いた。小さかった。軽かった。……手のひらが、あたたかかった」
「俺の、ですか」
「ああ。赤子は誰でもあたたかい。だが、違った。火の温かさじゃない。十年火を触ってきた俺が言うんだ。あれは、火じゃなかった」
父さんは、そこで言葉を切った。風が、岩の縁を撫でて通った。
「それが何なのか、俺には分からなかった。分からんまま、七つまで待った。鑑定の日にな」
俺は息を止めた。
「水晶が光らなかったとき、俺は、ほっとしたのか、悔しかったのか、自分でも分からなかった。ベルトの顔を見て、『ああ、こいつにも読めんのか』と思った。……読めない、と思ったんだ。ない、とは思わなかった」
父さんの声は低くて、平らだった。けれど、平らな声の下で、何かがずっと、静かに煮えていた。
(八年、黙ってたのか)
喉の奥が、熱くなった。
「爺さんに、お前を会わせたのは、俺だ」
その一言は、不意に落ちてきた。
「……え」
「あの山道。お前が初めて一人で、あそこを歩けるようになる歳を待っとった。爺さんが散歩に出る時刻は、前から知っとった」
あの山道の風景が、頭の中でひっくり返った。
偶然だと思っていた。村はずれの山道。灰色の外套の老人。足音のしない歩き方。あの出会いは、俺の運が良かったのではなかった。
「三年前に、一度頼みに行った。断られた。『教えるのは、もうやめた』と」
「じゃあ、どうして」
「道で会うぶんには、止められんからな」
父さんは、頬の傷を、指の背で軽くかいた。
「会って、お前が自分で頭を下げるなら、それでいい。下げなければ、それまでだ。そう決めとった。……お前は、下げた」
弟子入りの日。「うるさい」と一蹴されて、それでも翌朝、小屋の前に立った自分を思い出した。あれを、父さんは、遠くから、ずっと。
「爺さんは、お前を見て『やれる』と言った。……やれてる、と。冬の山で、そう言った。それが、あの密談だ」
俺は、しばらく何も言えなかった。
胸の中で、これまでばらばらだった記憶が、並び直していた。
あの日、鑑定のあとで、父さんが家までの道を黙って歩いたこと。「弱い火を十年磨いた」と、わざわざ話してくれたこと。毎朝、剣の稽古に出る俺を、何も聞かずに送り出してくれたこと。
「父さんは、何も教えてくれなかった」
口から出た声は、思ったより子供っぽかった。
「剣も、魔法も。どうして」
「教えられんからだ」
父さんは、即答した。
「俺は、お前に教えられる物を持っとらん。弱い火と、古い剣の型だけだ。……だから、持っとる者に頭を下げた。親にできることは、手を離す場所を選ぶくらいのことだ」
手を離す場所。
その言葉を聞いて、俺は、父さんの口癖を思い出した。
好きにしろ。どこへでも行け。
ずっと、突き放す言葉だと思っていた。冷たい父親の、素っ気ない返事だと。
違った。
あれは、見送る言葉だった。どこへ行っても、お前の足で行け、という。引き止めない代わりに、道は選んでおいた。そういう人の、精一杯の言い方だったのだ。
「……ごめんなさい」
「何がだ」
「ずっと、勘違いしてて」
「謝ることじゃない。勘違いさせるように言ったのは、俺だ」
父さんは、ほんの少し、笑った。頬の傷が、笑みの形に引き攣れた。
「その傷」
聞くつもりはなかったのに、口が動いた。
「冒険者のとき、ですか。魔物に」
「魔物にやられた。それは本当だ」
父さんは、少しだけ間を置いた。
「だが、冒険者をやめた理由は、傷じゃない」
それ以上は、続かなかった。
父さんは村を見ていた。いや、村の向こうの、もっと遠くを見ていた。膝の上の右手が、開いたり、閉じかけたりを、ゆっくり繰り返している。爺さんが手紙を前にしたときと、同じ手つきだった。
「いずれ話す。お前が、村の外へ出る前に。……それまで待てるか」
待てるか、と聞かれた。
待て、ではなかった。命令ではなく、問いだった。
握らずに、置いておく。爺さんに教わった。答えを急がない。急ぐと、見えるものが減る。
「待てます」
俺は答えた。
「俺も、握らないで、待ちます」
「……そうか」
父さんは、それだけ言って、弁当の包みを開いた。母さんの握り飯が二つ。薬草茶の水筒。父さんはひとつを俺に渡し、残りの一つを、黙って頬張った。
塩気が強かった。強すぎて、少し涙が出た。
(ただの塩だ。握り飯の塩加減だ)
誰に言い訳しているのか分からなかった。父さんは、気づかないふりをしてくれた。
「爺さんは、不器用な男だ」
父さんは、水筒の栓を抜きながら言った。
「言葉が足りん。昔からだ。だが、一度した約束を、あいつが破ったのを見たことがない。お前を預けると決めたのも、そのためだ」
「不器用なのは、父さんも同じです」
口が勝手に動いた。言ってから、慌てて口を押さえた。
父さんは、ぽかんとして、それから、肩を揺らした。声は出さない。出さないまま、本当におかしそうに笑った。
「……そうだな。同じだ」
笑いが収まるまで、少しかかった。その間、俺は、父さんが笑うところを見るのは初めてかもしれない、と思っていた。
帰り道、霧は晴れていた。
木の根を越えるとき、父さんは今度も、左手を後ろへ出した。俺は少し迷って、その手を、きちんと握った。
父さんの手は、硬くて、大きくて、あたたかかった。
弱い火を十年磨いた手だった。火の温かさではあったが、それだけではないような気もした。
父さんは何も言わなかった。ただ、握り返す力が、ほんの少しだけ強くなった。
夜、布団の中で、掌をかざした。
真ん中が、温かい。握らない、持っているだけの入口だった。
生まれた日の、手のひらのあたたかさ。父さんは、それを八年、胸の中に置いていた。何なのか分からないまま、手放さず、握りつぶさず、置いていた。
それは、俺が毎晩やっていることと、同じだった。
今日の発見は、それだった。
俺の「持っているだけの入口」は、俺が自分で見つけた技ではなかった。いちばん近くにいた人が、八年前から、黙って見せてくれていたのだ。
隣の部屋から、父さんと母さんの低い話し声が聞こえた。何を話しているのかは分からない。ただ、母さんが小さく笑う気配がして、父さんの短い相づちが続いた。八年のあいだ、この家の夜は、こうして静かに続いてきたのだと思った。
窓の外で、風が鳴った。夜の風だ。
爺さんは名前を知っている。父さんは過去を待たせている。どちらも、焦らなくていいと言ってくれた。
焦らずに、そのときを待とう。
けれど、もう一人ではない。そう思いながら、目を閉じた。
(次回)
第四十三話「名前をもらう日」
父との山行きから数日後、グレンは約束どおり、アレンに「その名前」を告げる。八年間の「適性なし」は何だったのか。エルナを交えた稽古の朝、小屋の中でひとつの言葉が静かに置かれる。




