灰の剣聖の問い
翌朝、小屋の前に爺さんの姿はなかった。
切り株も、石灰の円も、朝露に濡れて静まっている。円の白い線は、一晩で少し滲んでいた。
「アレン」
戸の内側から、声がした。
「お前だけ入れ。エルナは外だ。薪を割っておけ」
「えっ、あたしだけ薪?」
「風で割れるなら、割ってみろ」
エルナは頬を膨らませたが、斧を取りに走っていった。指を立てて風の刃で薪に挑むつもりらしい。たぶん、うまくいかない。そして、あいつはうまくいかなくても、きっと楽しそうにやる。
戸をくぐった。
小屋の中は、薄暗くて、乾いた木と古い紙の匂いがした。壁には刃こぼれの剣の掛け金だけが残っている。剣は昨日から、爺さんの腰にある。机の上には、あの飴色の木剣と、折り畳まれた手紙が並んでいた。
「座れ」
向かいの丸椅子に腰を下ろした。爺さんは机の向こうで、両手を膝に置いている。開いた手だった。
(面談だ、これ)
前世の癖で、そう思った。評価面談の前の、空気の薄い感じに似ていた。
爺さんは、しばらく何も言わなかった。
窓の外で、薪の割れる音がした。割れたのではなく、エルナが斧を取り落とした音かもしれない。爺さんの目尻が、ほんの少し動いた。
「アレン。ひとつ聞く」
「はい」
「お前は、自分の魔素を、どこまで知っている」
問いは、短かった。短いぶん、逃げ場がなかった。
どこまで、と言われても、困る。俺は少し考えて、正直に並べた。
「吸うのと、巡らせるのは、赤ん坊の頃からできました。手から外へ出すのも。……見えます。空気の中の魔素が、粒みたいに。木の近くや、雨上がりは濃いです」
「誰に教わった」
「誰にも」
「だろうな」
爺さんは頷いた。驚いた様子はなかった。昨日の立ち会いで、答えの大半は、もう手に入れているのだろう。
「ほかには」
「ほかに……あの」
言いかけて、少し迷った。変な子供だと思われるのが怖かったわけではない。ただ、これまで誰にも言葉にしたことがなかった。
「魔素には、癖があるみたいです。エルナの風は、軽くて、斜めに流れる癖がある。父さんの火は、重くて、まっすぐ下に溜まる。母さんの周りは、土の匂いのする、ゆっくりした癖で」
「ほう」
「だから、属性は、魔素の方言みたいなものかな、と。……前に、父さんの火を見ていて、思っただけですけど」
爺さんの指が、膝の上で、止まった。
「方言、か」
爺さんは、その言葉を口の中で転がした。
「面白い言い方をする。……では、お前自身の魔素は、何の方言だ」
答えられなかった。
考えたこともなかった。いや、違う。考えないようにしていた、のかもしれない。
自分の魔素を見ようとすると、いつも、そこだけ輪郭が曖昧になる。風とも、火とも、土とも言えない。透明な水みたいに、周りの癖を映して、すぐに溶ける。それを俺は、「何もない」ということだと、ずっと思っていた。
「……癖が、ないです。たぶん」
「ないのか」
「いえ。ない、というより……どれにも、寄れる気がします。エルナの風に触れると風に寄るし、父さんの火のそばだと、火に」
口に出して、自分で驚いた。
言葉にした途端、これまでばらばらだった小さな違和感が、ひとつの線になりかけた。握りたい、と思った。急いで答えを掴もうとして、掌の入口が、きゅっと狭くなった。
(待て、落ち着け。握るな)
深く息を吐いた。入口が、元に戻る。
爺さんは、その一部始終を見ていた。
「今、止めたな」
「はい」
「それでいい。答えを急ぐな。急ぐと、見えるものが減る」
爺さんは、机の上の手紙に、そっと指を置いた。
「七歳のとき、水晶球に手をかざしたな」
心臓が、一度、大きく鳴った。
「はい。何も、反応しませんでした。『適性なし』と」
「ベルトは、そう言った」
爺さんは、淡々と続けた。
「あの水晶球は、ひとつの癖にしか染まらん。火なら赤、水なら青。そういう仕掛けだ。癖がひとつに寄った者を映すために、作られとる」
「……はい」
「寄る先が、六つあったらどうなる」
小屋の中が、しんとした。
六つ。火、水、風、土、雷、光。
水晶球は、どの色にも染まらなかった。赤にも青にも。染まらなかったのではなく、どれに染まればいいか、決められなかったとしたら。
喉が、からからに乾いた。
「あれは、お前に『ない』と言ったのではない。お前を映す道具が、なかった。それだけかもしれん」
「かも、しれない……」
「かもしれん、と言っとる。決めてはおらん」
爺さんは、声を落とした。
「俺は五年前から、疑っておった。山でお前を初めて見たときからだ。魔素の通りが、子供のそれではなかった。だが、疑いは疑いだ。昨日、お前が俺の魔素を読んだ。あれで、疑いが一段、重くなった」
「重く……」
「ああ。だから、聞いた。自分の魔素を、どこまで知っとるか、と」
爺さんは、ゆっくり息を吐いた。
「今日、俺が言えるのはここまでだ。お前の適性が何なのか、俺は名前を知っとる。だが、今は言わん」
「どうして、ですか」
声が、少し掠れた。言い返すつもりはなかった。ただ、七歳から八歳までの一年、「何もない」という言葉と一緒に暮らしてきた。その言葉が、いま揺れている。揺らしておいて、止めるのは、少し、意地悪だと思った。
爺さんは、俺の顔をじっと見た。
「名前を先に与えると、お前は、その名前に合わせて育つ。握った答えの中身が、固まる。俺がそうだった」
爺さんの視線が、腰の剣に落ちる。
「まず、体に覚えさせろ。名前は、あとからでいい。……それと、もうひとつ」
「はい」
「これは、俺の口から言い切ることではない。ガイにも、話す番がある」
「父さんに?」
「十年前、山であいつと話したことの、残りだ。あいつは、お前に言うと決めておる。数日のうちにな」
十年前。山の密談。冬の日の、「やれてると言ってた」という、あの一言。
点がまた一つ、線の端に触れた気がした。
小屋を出ると、日が高くなっていた。
庭先に、割れなかった薪が山になっている。エルナは切り株に座って、斧を抱えたまま、ぐったりしていた。
「風で割るの、無理。ぜんぜん割れない」
「斧で割ればいいんじゃないか」
「それじゃ、風の稽古にならないでしょ」
こういうところは、頑固だ。俺は笑って、隣に腰を下ろした。エルナが、横目でこちらを見る。
「顔、変」
「変?」
「いつもと違う。……泣いたあと、みたいな顔。でも泣いてない」
泣いていない。ほんとうに、泣いてはいなかった。ただ、胸のどこかに、水を一杯に張った器を抱えているような感じがした。揺らすとこぼれるから、そっと歩きたかった。
「爺さんに、ちょっと、聞かれた」
「何を」
「自分のことを、どこまで知ってるか」
「ふうん」
エルナは、それ以上は聞かなかった。聞かないかわりに、斧を置いて、俺の隣で、足をぶらぶら揺らした。
「どこまで知ってた?」
「思ってたより、ずっと少なかった」
「あたしも、あんたのこと、ぜんぜん知らないよ」
「そうか」
「でもさ。知らなくても、一緒に走れるでしょ」
あいつは、前を向いたまま言った。
その言葉に、救われた気がした。名前を知らなくても、並んで走ることはできる。まず体に覚えさせる。名前は、あとからでいい。
夜、布団の中で、七歳の秋のことを思い出した。
村の集会所。水晶球。ベルトの、困ったような顔。「適性なしだ」と言われて、俺は、笑って頭を下げた。前世の俺は、評価に逆らわない人間だった。逆らって損をした経験のほうが、ずっと多かったから。
あのとき、俺は「ああ、そうか」と思った。それだけだった。八年分の人生の最初の判定を、判定として受け入れた。
けれど、もし、あの判定が、俺ではなく道具の限界を示していたなら。
俺は、道具の限界を、自分の欠陥だと思い込んで生きてきたことになる。
(仕様どおりに動かないのを、利用者のせいにしていたようなものか)
思わず、苦笑した。前世の仕事で、いちばん嫌いだった種類の言い訳だ。それを、水晶球にされたのか。いや、違う。水晶球は悪くない。ただ、それが映せる範囲が、決まっていただけだ。
掌をかざした。
真ん中が、温かい。握らない、持っているだけの入口だった。
この温かさは、「ない」の温かさではなかった。「どれにも寄れる」の温かさだった。
今日の発見は、それだった。烙印だと思っていたものは、俺の欠陥ではなく、誰かが作った物差しの端だった。まだ確かではない。確かではないが、器の水は、こぼさないまま、持っていられる。
窓の外で、風が鳴った。夜の風だ。
明日、また稽古がある。そのうち、父さんの話もある。
焦らずに、そのときを待とうと思った。握らずに、置いて、育てて。
そう思いながら、目を閉じた。
(次回)
第四十二話「父さんの話」
爺さんの言ったとおり、数日のうちに、ガイがアレンを山へ連れ出す。十年前の冬の密談の続きと、右頬の古傷。父の口から語られる言葉が、アレンの八年を静かに塗り替えはじめる。




