立ち会いの朝
その朝、小屋の前の地面に、白い石灰で線が引かれていた。
円だった。直径は、大人が五歩で横切れるくらい。線は少し歪んでいて、引いた人の手が慣れていないのが分かった。三十年ぶりに引いたのだろう、と思った。
円の真ん中に、爺さんが立っていた。
腰には、刃こぼれの剣。抜かれていない。左手が、鞘に軽く添えられているだけだった。右手には、飴色に光る木剣が一本。昨日、俺が油を塗った、あの古い木剣だ。
「来たか」
「おはようございます」
「今日は立ち会いだ。ひとりずつ、俺と打つ」
隣でエルナが、ごくりと喉を鳴らした。
「勝たなくていい。当てなくていい。ただし、逃げるな。円の外へ出たら、そこで終いだ」
「はい」
「アレン、お前からだ」
木剣を取って、円に入った。靴底に、石灰の粉がつく。足の裏が、いつもより地面に近く感じた。
(……本番環境、ってやつか)
内心で呟いて、すぐに打ち消した。怖がるときほど、握る。握ったら、入口が重くなる。
手のひらに、温かいものを持った。置かない。握らない。
三歩の間合いで、向かい合った。
爺さんは構えなかった。木剣の先を、地面に向けたまま立っている。構えがない、というより、構えの手前に居る、という感じだった。
隙は、ない。隙の「場所」すら見えなかった。
「いつでもいい」
言われても、動けなかった。
足を出せば、そこを打たれる。剣を上げれば、そこを抜かれる。分かっている。分かっているのに、頭の中で、勝手に十通りの未来が走った。
「止まるな」
「……はい」
一歩、出た。音を消す。移さず、運ぶ。
爺さんの木剣は、動かなかった。
二歩目。三歩目で間合いに入り、肩の力を抜いたまま、木剣を振り上げた。
その瞬間だった。
爺さんの木剣が、すっと上がって、俺の木剣の側面に、触れた。
叩かれた、のではない。触れただけだ。ほんの一瞬、木と木が、軽く合わさった。
それだけで、俺の剣は、思っていた軌道から、ふわりと外れた。
「あ」
体が、前に流れた。倒れる前に、爺さんの木剣の先が、俺の胸の前でぴたりと止まった。
「一本」
それだけ言って、木剣は引かれた。
痛みは、なかった。ただ、何が起きたのか、よく分からなかった。
「もう一度」
「はい」
二本目も、三本目も、同じだった。
角度を変えても、速度を変えても、爺さんの木剣は、俺の剣に「触れる」だけで、全部をいなした。力はまるで感じない。一度も、押されていない。
七本目で、気づいた。
触れた瞬間に、爺さんの魔素が、木剣を通って、こちらに伝わってくる。
ほんの一瞬だ。木と木が合わさる、その接点で、爺さんの魔素と、俺の魔素が、触れ合っている。
水面と水面が、重なる感じだった。
爺さんの水面は、静かだった。そして、深い。底が見えないほど深いのに、重くない。
(……読めてる)
自分の魔素を通して、向こうの魔素が「読める」。次にどちらへ動くか、触れたその瞬間に、ほんの少しだけ、先に分かる。
八本目。
木剣が触れた。
同時に、爺さんの魔素が、右へ流れるのが見えた。いや、感じた。
俺は、剣を引いた。引いて、左に逃げる。
爺さんの木剣は、空を切った。
一拍の沈黙があった。
「……ほう」
爺さんが、小さく言った。
「今、何をした」
円の中で、爺さんは木剣を下ろして、俺を見ていた。
目が、いつもの目ではなかった。細く、鋭くて、何かを量っている目だった。
「触れた、とき……爺さんの魔素が、右に流れるのが、分かって」
「分かった?」
「はい。分かった、というか……読めた、というか」
上手く言えない。言葉にしようとすると、握ってしまう。
爺さんは、数拍、黙った。
円の外で、エルナが身を乗り出していた。父さんは、小屋の壁にもたれたまま、腕を組んでいない。その手の指が、ぴくりと動いたのが見えた。
「魔素を通して、相手の動きを先に読む。剣士の間では、『聴く』と呼ぶ」
「聴く」
「三十年やって、できる者は十人もおらん。お前は、八歳でそれを、偶然やった」
偶然、という言葉が、少し引っかかった。爺さんは、偶然と言いながら、少しも偶然だと思っていない顔だった。
「……もう一本だ」
「はい」
構え直した俺を見て、爺さんの口の端が、ほんの少し動いた。笑ったのか、別の何かなのか、分からなかった。
それから三本、俺は一度も当たらなかった。
けれど、避けることはできた。触れる前に、爺さんの魔素の「傾き」が、肌のあたりに伝わってくる。傾きが分かれば、体は勝手に動いた。
十一本目で、爺さんが木剣を下ろした。
「ここまでだ」
「まだ、やれます」
「やれるから、ここまでだ」
その言い方は、父さんの口癖に似ていた。
「やれるうちに終わるのが、稽古の仕舞い方だ。限界まで絞れば、握る癖がつく」
「……はい」
円を出た。足が、少し震えていた。恐怖ではなかった。体の中で、何かが一気に動いたあとの、心地のいい疲れだった。
エルナが、手拭いを投げてくれた。
「ずるい。見てて、全然分からなかった」
「何が」
「どうして避けられたのか、全然。あんた、途中から爺さんの動きを先に知ってるみたいだった」
「……そう、かもしれない」
あいつは、むっと唇を尖らせて、それから、にっと笑った。
「じゃあ、あたしの番。あんたに負けないから」
「勝ち負けじゃない」
「分かってる。だから、負けないから」
理屈が合っていなかった。それでも、エルナの足取りは、驚くほど軽かった。
エルナの立ち会いは、俺とは違った。
最初の一歩で、あいつは消えた。
消えた、と見えたのは、速さが違うからだ。爺さんの木剣が、風を切る前に、エルナはもう横に回っている。円の中を、獣みたいに低く、滑るように走る。
爺さんは、動かなかった。ただ、首だけをゆっくり回して、あいつを目で追っている。
三周目に入ったところで、エルナは指を立てた。
風が出た。円の端の草が、一筋、爺さんの足元に向かって倒れる。狙っていない。ただ、通しただけだ。通した風が、爺さんの外套の裾を、ふわりと揺らした。
爺さんの目が、風のほうへ動いた。
その一瞬の隙に、エルナが、背後に滑り込んだ。
「そこだ!」
叫びと一緒に、木剣が振り下ろされた。
爺さんの背中に、届く、と思った。
木剣が、乾いた音を立てて、止まった。
爺さんの木剣が、振り向きもせず、後ろへ回って、エルナの剣を受けていた。受けて、そのまま、軽く押し返した。
「ひゃっ」
エルナは三歩ぶん、後ろへ転がされた。尻餅をついて、きょとんと爺さんを見上げる。
「……届いたと思ったのに」
「届いた」
爺さんは、振り返って言った。
「風が、俺の気を持っていった。そこは、見事だ。ただ、剣が正直すぎる。振り下ろす前に、叫んだ」
「あっ」
「声は、剣より先に届く。覚えとけ」
エルナの顔が、みるみる赤くなった。それから、悔しそうに笑った。
「もう一回、お願いします」
「いい返事だ」
爺さんが、はっきりと、笑った。
口の端だけではなかった。目尻に皺が寄って、歯が少しだけ見えた。山の上で一緒に過ごしてきて、初めて見る笑い方だった。
昼前に、稽古は終わった。
切り株に座った爺さんの隣に、父さんが来ていた。いつ小屋の前から動いたのか、気づかなかった。二人は並んで、村のほうを見ている。声は低くて、聞き取れない。
俺は、少し離れた場所で、エルナと水を飲んでいた。
「ねえ、アレン」
「ん」
「爺さん、さっき、あんたを見る目が、違った」
「違った?」
「うん。なんか、びっくりしてるみたいな。……怖がってる、みたいな」
怖がっている。爺さんが。
そんなはずはない、と思った。灰の剣聖が、八歳の子供の何を怖がるのか。
けれど、あの目を思い出すと、否定しきれなかった。「ほう」と言ったときの、あの短い息。量るような視線。そして、父さんの指が動いたこと。
(……俺は、何をやったんだ)
木剣を触れ合わせて、相手の魔素を読んだ。それだけのことだ。それだけのことの、はずだった。
けれど、爺さんは言った。「偶然、やった」と。
偶然ではない、と、あの目は言っていた。
父さんが、小さく頷いて、立ち上がった。爺さんは座ったまま、父さんを見送った。それから、ゆっくりと顔を上げて、俺を見た。
目が合った。
爺さんは、何も言わなかった。ただ、手招きもしなかった。「あとで話す」と言われたような気がした。確かに、そう言われたのだと思う。声のない約束だった。
その夜、布団の中で、掌をかざした。
真ん中が、温かい。握らない、持っているだけの入口だった。
触れた瞬間に、相手の魔素が読める。
そんなことが、普通の子供にできるのか。できないから、爺さんは驚いたのだろう。できないことが、できてしまった。なぜ、できたのか。
考えかけて、やめた。答えは、握らない。置いておけば、育つ。
今日の発見は、それだった。
自分の魔素は、自分の中だけで回っているのではない。触れた誰かの魔素と、重なる。重なったとき、相手が見える。
爺さんの水面は、深かった。底が見えないほど。
その深さの奥で、一瞬だけ、何かがきらりと動いたのを、俺は見た気がする。
鑑定のとき、水晶球は、何も映さなかった。「適性なし」。そう言われて、七歳の俺は、笑って受け入れた。
あの水晶球は、本当に、何も見えていなかったのだろうか。
ふと、そんな考えが浮かんだ。浮かんで、すぐ、沈んだ。
窓の外で、風が鳴った。エルナの風とは違う、夜の普通の風だ。
あと少しで、何かが分かる。
そんな予感だけを、握らずに、枕の横に置いて、目を閉じた。
(次回)
第四十一話「灰の剣聖の問い」
立ち会いの翌日、爺さんは小屋の中にアレンだけを呼ぶ。壁の剣の下で、爺さんは一つの問いを口にする。「お前は、自分の魔素を、どこまで知っている」。アレンの答えが、八年分の誤解の扉に触れる。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございます。玲鈴です。
今話は、爺さんが初めて本気で笑った回であり、アレンの「聴く」力が顔を出した回でした。もしご自分が誰かに「それ、普通じゃないよ」と驚かれたことがあるなら、どんな場面だったか感想で教えてくださると嬉しいです。
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