開かれる布
四日目の朝、爺さんは切り株ではなく、小屋の前の地面に座っていた。
敷いた筵の上に、灰色の布の包みが置かれている。爺さんはその前で正座して、膝に両手を載せていた。昨日と同じ、開いた手だ。
俺とエルナが着いたときには、もう父さんもいた。小屋の壁に背をもたせて、腕は組んでいない。
「来たか。そこに座れ」
爺さんが示したのは、筵の向かい側だった。昨日は「離れて見ろ」と言われた二人が、今日は呼ばれている。エルナと目が合った。あいつは唾を飲み込んで、背筋を伸ばした。
「開ける前に言っておく」
爺さんは包みから目を離さずに言った。
「中身が何であれ、お前たちに聞かせるつもりはなかった。だが、昨日の火の前に、お前たちも立った。立った者には、見る権利がある」
「はい」
「ただし、全部は話さん。話せんこともある」
「はい」
返事は、俺とエルナで重なった。
布の結び目は固かった。
爺さんの指が、結び目に触れて、止まる。昨日の襟の縫い目と同じだった。迷って、離れそうになって、戻る。
三度目で、指が動いた。
ほどけた布の下から、出てきたのは、剣ではなかった。
木剣だった。
古い。柄の握り部分が、人の手の形に沿って、すり減っている。刃にあたる部分は黒ずんで、あちこちに打ち傷の跡が重なっていた。長さは大人用より少し短い。子供の頃の背丈に合わせたものだと、すぐに分かった。
その下に、折り畳まれた紙が一枚、挟まっていた。
「……木剣」
エルナが、思わず声に出した。
「そうだ。木剣だ」
爺さんは、それを両手で持ち上げた。重さを確かめるように、少しだけ揺らす。
「俺が十三で握ったやつだ。師匠に最初に渡された。三年使って、ひびが入って、捨てたと思っとった」
「捨てた、んですか」
「捨てたはずだった。……あいつが拾っとったらしい」
あいつ、と爺さんは言った。昨日と同じ言い方だった。名前では呼ばない。呼べないのではなく、呼び方を探しているように聞こえた。
柄の端に、小さな彫り跡があった。爺さんの親指が、そこを撫でる。二つの文字が、重なるように刻まれている。ひとつは、爺さんの名の頭文字だろう。もうひとつは、俺には読めない綴りだった。
「二人でやった。夜中にな。ばれて、二人とも、朝まで走らされた」
その声の底に、ほんの少し、笑いの欠片が混じっていた。三十年分の埃の下から出てきた、小さな音だった。
(……この人にも、悪さをして走らされた夜があったのか)
当たり前のことだった。それなのに、胸の奥が妙にくすぐったかった。
爺さんは木剣を、筵の上にそっと置いた。それから、挟まっていた紙に手を伸ばした。
紙は、一度、手の中で止まった。
「ガイ」
「ああ」
「お前は、中身を知っとるか」
「知らん」
父さんは短く答えた。
「だが、ダンから聞いた。書いた奴が、書き直しを何度もしたことは」
「……そうか」
爺さんは紙を開いた。
墨の匂いがした。いや、気のせいだ。ここにあるのは、乾いた紙の匂いだけのはずだった。一行目の筆跡は、角張っていて、力が強かった。書き直した跡が、いくつも滲んでいる。
爺さんは、紙に目を落とした。
読んでいるあいだ、魔素が動いた。水面の全身が、わずかに沈んで、手のひらの一点に集まって、それから、ゆっくり広がって、戻った。
長い時間だった。
爺さんは、最後まで読んで、一度だけ目を閉じた。
「……あいつらしい」
「何と書いてありますか」
エルナが、思い切って聞いた。あいつの声は、さっきより小さい。
爺さんは目を開けた。
「全部は読まん。書いてあることの半分は、俺だけが受け取るものだ。もう半分を、読む」
爺さんは、紙を持ち直した。
「グレンへ。
まだ握っているか。握っていなければ、この手紙は要らない。そのまま火にくべてくれ。
お前が剣を置いた日、俺は止めなかった。止められなかったのではない。止めなかった。お前の背中が、あまりにまっすぐだったからだ。まっすぐな背中に、俺は何も言えなかった。
あの日から、三十年、考えた。止めるべきだったのか、送り出すべきだったのか。答えは出なかった。出ないまま、俺も剣を置いた。
同じ後悔を、お前も持っているだろう。だから、書く。
後悔は、握れば刃になる。自分を斬る刃だ。持てば、道標になる。次の誰かが、迷わないための。
お前の手は、まだ開くか。開くなら、頼みがある」
そこで、爺さんは読むのをやめた。
紙の続きは、膝の上で、静かに折られた。
「ここから先は、言わん。いずれ話す。今ではない」
「はい」
返事をしたのは、俺だった。
聞きたかった。頼みとは何か。あいつとは誰か。後悔の中身は何か。聞きたいことが、胸の中で、山ほど積み上がっていた。
それでも、聞かなかった。
聞けば、握ることになる。答えを欲しがって、握り込んで、入口を重くする。今日の爺さんの前では、それはやってはいけないことのように思えた。
代わりに、俺は一つだけ言った。
「その木剣、ちゃんと手入れしたら、まだ使えますか」
爺さんは、ゆっくり俺を見た。
「……使えるはずだ」
「じゃあ、俺が、油を塗ってもいいですか」
口が勝手に動いた。言ってから、顔が熱くなった。何を言っているのだろう、俺は。
爺さんは、すぐには答えなかった。しばらく俺を見て、それから、ほんのわずかに、口の端を動かした。
「好きにしろ」
父さんの口癖と同じだった。同じ言い方で、同じ温度で、そう返ってきた。
油は、母さんが薬草の棚から分けてくれた。
その午後、俺は小屋の前の縁台で、木剣を一本ずつ磨いた。布に油を含ませて、黒ずんだ木目をなぞる。打ち傷の凹みは、指の腹で触れると、一つ一つ違う深さだった。
どれが爺さんの傷で、どれがあいつの傷なのか。分からない。分からないが、傷の数だけ、二人は打ち合ったのだろう。
油を含んだ木目が、少しずつ色を取り戻していく。黒ずみの下から、淡い飴色が顔を出した。三十年、暗い布の中で眠っていた木が、息をしはじめたみたいだった。
磨く手は、握らなかった。布を持つだけで、木のほうが勝手に艶を返してくる。急がなくていい仕事というのは、こんなに静かなのかと思った。
隣で、エルナが松の枝を削っていた。
「あたしも、何かしたい」
「何かって」
「あんたは木剣を磨く。爺さんは手紙を持つ。父さんは立ってる。あたしだけ、何もしてない」
「立ってるのも、仕事だと思う」
「それは、父さんの仕事でしょ」
エルナは唇を尖らせて、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「ねえ。あたしの風ってさ、運ぶものなんだよね」
「……そうだな」
「だったら、運ぶ。あとで」
何を、とは言わなかった。あいつは枝を削る手を止めて、空を見た。雲が、山のほうへゆっくり流れていく。
夕方近く、爺さんが小屋から出てきた。
壁にかかっていた刃こぼれの剣を、腰に差していた。
抜かない。ただ、差しているだけだった。それでも、見た瞬間に、息が止まった。三十年そこに掛けられていた剣が、初めて、爺さんの体の側に戻ったのだ。
「アレン。エルナ」
「はい」
「明日から、稽古の中身を変える。基本は同じだが、立ち会いを増やす。覚悟しとけ」
「はい!」
二人の返事が揃った。
爺さんは、それ以上は言わなかった。腰の剣に、左手を添えている。握っているのではない。ただ、そこに置いている。
夕日が、灰色の外套の肩に当たった。長いこと畳まれていた皺が、光の中で、少しだけ伸びて見えた。
帰り道、父さんが並んで歩いた。
珍しいことだった。いつもは先を行くか、後ろにつく。今日は、同じ歩幅で、同じ速さだった。
「アレン」
「はい」
「木剣を磨くと言ったのは、お前の考えか」
「……分かりません。口が勝手に」
「そうか」
父さんは前を向いたまま、言った。
「口が勝手に動くときは、たいてい、体のほうが先に分かっとる」
そのまま、数歩進んだ。
「剣は、持ち主だけが磨くものじゃない。誰かが磨いてやってもいい。……お前は、それができる」
褒められたのかどうか、分からなかった。ただ、父さんの右手は、体の横で、軽く開いていた。
「父さんも、磨いたことがありますか」
父さんは、少しだけ笑った。頬の傷が、笑みの形に引き攣れた。
「ある。……いつか、話す」
点がまた一つ増えた。線にはまだならない。ならなくていい。今日は、持っているだけでいい。
夜、布団の中で、掌をかざした。
真ん中が、温かい。握らない。持っているだけの入口だった。
爺さんの後悔は、爺さんだけのものではなかった。あいつの後悔でもあった。二人で持っていたものが、片方の手を離れ、三十年かけて、もう片方に届いた。
後悔は、握れば刃になる。持てば、道標になる。
その一行を、俺は忘れないでおこうと思った。
(次回)
第四十話「立ち会いの朝」
翌朝から、爺さんの稽古が変わる。アレンとエルナは初めて、師匠本人と木剣を合わせることになる。灰の剣聖の腰の剣は、抜かれないまま、二人の前に立つ。




