三日目の朝
三日目の朝、切り株は空っぽだった。
俺とエルナが小屋の前に着いたとき、爺さんの定位置には、朝露だけが光っていた。座る人のいない切り株は、いつもより少し低く見えた。
「いない」
「小屋かな」
戸は開いていた。覗くと、爺さんが背を向けて立っている。いつもの作業着ではない。奥の長持ちから出したのだろう、くすんだ灰色の外套を羽織っていた。肩口に、畳み皺がまだ残っている。
壁の刃こぼれの剣は、いつもの場所にあった。爺さんは、それを見ていなかった。見ないようにしていたのかもしれない。
「来たか」
振り向かないまま、爺さんは言った。
「今日の稽古は休みだ。下りる」
「街道、ですか」
「ああ」
エルナが、息を呑む音がした。
「ついてこい。ただし、離れてだ。口も挟むな」
「いいんですか」
「見ておけ、と言っとる」
爺さんは外套の襟を直した。指先が、襟の縫い目で、ほんの少し迷った。迷って、離れた。
(……この人でも、緊張するのか)
口には出さなかった。
山道を下りる間、爺さんは一度も振り返らなかった。
ただ、足音が違った。
いつもの爺さんは、音がしない。気づいたら隣にいる、という歩き方だ。それが今日は、一歩ごとに、かかとが土を踏んだ。わざとだ。枯れ枝さえ避けずに踏んで、ぱき、と乾いた音が山に響いた。
「爺さん、音が……」
エルナが小声で言いかけて、自分で気づいたらしい。口を閉じた。
来た、と知らせる歩き方だった。不意に現れたりしない。正面から、聞こえるように下りていく。三十年ぶんの礼儀を、足音で払っているみたいだった。
山道の曲がり角に、父さんが立っていた。
腕は組んでいない。両手は体の横に、軽く下がっている。指は、開いていた。
「ガイ」
「……来たか」
やりとりは、それだけだった。父さんは爺さんの半歩後ろに並び、俺たちには「離れてついてこい」と目で言った。右の親指は、手のひらに食い込んでいない。昨日の俺の言葉が、少しは届いたのかもしれない。
村はずれの草地には、焚き火がひとつ。荷車が二台。人は六人。ダンは火の向こうに立っていた。灰色の布の包みは、荷車の横から、彼の足元に移されていた。
爺さんが近づくと、仲間たちが一斉に立ち上がった。誰も声を出さない。鍋を火にかけていた若い男が、慌てて、それを外した。
十歩手前で、父さんが足を止めた。進んだのは、爺さんだけだった。
俺とエルナは、さらに十歩後ろ、道脇の楢の木の陰で止まった。木の陰は風が止む。声が、ちゃんと届く場所だった。
爺さんとダンは、三歩の距離で向き合った。
長いあいだ、誰も口を開かなかった。
動いているのは、焚き火の爆ぜる音だけだった。
ダンの魔素は、昨日と同じ、薄く全身に行き渡る水面。爺さんも同じだった。二つの水面が向かい合って、どちらも波を立てない。
ただ、爺さんの手のひらのあの一か所だけが、揺れていた。
最初の一言は、爺さんだった。
「……誰の使いだ」
掠れていた。三十年ぶりに使う道具みたいな声だった。
ダンは、深く頭を下げた。
「名は、あなたに先に呼んでほしいと言われている。そう言付かった」
爺さんの肩が、わずかに動いた。
数拍のあいだ、山で鳥が一声だけ鳴いた。
「……あいつは」
爺さんは、そこで切った。切って、飲み込んで、もう一度言った。
「あいつは、まだ生きとるのか」
ダンは顔を上げた。目を逸らさなかった。
「去年の冬の初めまで。静かな最期だったと聞いている」
エルナの手が、俺の袖を掴んだ。握っていた。俺は何も言わず、その手の上に自分の掌を重ねた。温かい入口を、そのまま。エルナの指が、少しずつ、緩んでいった。
爺さんは、動かなかった。
泣きもしないし、叫びもしない。ただ、手のひらの揺れが、すうっと止まった。池の水すましが、やっと足を下ろしたみたいに。
「そうか」
それだけだった。
それから、爺さんは長い息を吐いた。三十年ぶんの息を、一度に出しきるような息だった。
ダンは、足元の包みを両手で持ち上げた。
「預かりものだ。あなたに渡せと。……長いこと、渡す機会を探していた人の、遺言だ」
差し出された灰色の布を、爺さんは、すぐには受け取らなかった。
手が上がりかけて、止まった。拳が、一度、握られかけた。
後ろで父さんが、ほんの少し身じろぎしたのが分かった。
爺さんは、その拳を、ゆっくり開いた。
掌を上に向けて、両手を並べる。握らない。ただ、置く場所を作った。
ダンが、包みをそっと置いた。
爺さんの両手は、沈まなかった。重いはずの包みを、掌の真ん中で、静かに受けた。入口は、一瞬も重くならなかった。
(持てている)
見えた。三十年、握りしめて、握りしめて、やっと見つけた持ち方だった。いや、違う。今、この場で見つけたのだ。持ち方は、探している間は見つからない。受け取ろうとした、その瞬間にだけ現れる。
(要件定義じゃ出てこない。実装して、初めて分かる仕様だ)
内心で、そう思った。
爺さんは、包みを胸の前で抱えたまま、ダンに言った。
「……ご苦労だった。遠かったろう」
「遠かった。だが、来てよかった」
「今夜は預かる。開けるのは、明日だ」
「それでいい」
ダンは、もう一度、頭を下げた。仲間たちも、一斉に下げた。若い男の鼻が、赤かった。
帰りの山道、爺さんは包みを抱えたまま、足音を消していた。
元の、音のしない歩き方だった。さっき下りてきた道を、同じ人が、別の歩き方で上っていく。
「さっき、泣かなかったね」
エルナが、俺にだけ聞こえる声で言った。
「ああ」
「悲しくなかったのかな」
「違うと思う。……持ってた」
「持ってた?」
「悲しいのを、握りしめずに、ちゃんと持ってた」
言ってから、自分の言葉が少し大げさに思えた。それでも、エルナは笑わなかった。「そっか」と、静かに頷いた。
小屋の前で、爺さんは振り返った。俺とエルナを順に見て、それから、少し離れて立つ父さんを見た。
「ガイ」
「ああ」
「昨日の、お前の息子の言葉は、的を射とる。握るな、持て」
「聞いた」
「俺は、三十年遅れた」
「遅れてない」
父さんが、短く返した。
「持てた今が、その時だ」
爺さんの口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかどうかは、分からなかった。
爺さんは小屋に入り、戸を閉めた。包みを、壁の剣の下の机に置く音が、薄い板越しに、ひとつだけ聞こえた。
午後、爺さんは切り株に戻ってきた。
稽古はしない、と言ったはずだった。それでも、エルナは小屋の脇で指を立て、枯れ葉を一枚、そっと転がしていた。爺さんは何も咎めなかった。咎める代わりに、俺を手招きした。
隣に座れ、とは言われなかった。それでも、切り株の脇の地面に、俺は腰を下ろした。
「アレン。あの問いは、まだ持っとるか」
なんのために強くなりたい。春の兆しの頃に、投げられた問いだ。
「持ってます。答えは、まだです」
「それでいい」
爺さんは、村のほうを見たまま言った。
「俺は、答えを握った。若いうちにな。握ったまま、三十年、離さなんだ。気づいたときには、握った中身が、とうに固まっとった」
「固まる……んですか」
「答えは、置いておけば育つ。握れば、腐る」
短い言葉だった。それなのに、胸の奥で、何かがことりと動いた。
(仕様を早く固めすぎると、あとで直せなくなる。……そういう話か)
笑いそうになって、やめた。この人の前で、笑う場面ではない。
「持ち続けろ。問いごとな」
「はい」
返事をしたとき、爺さんの横顔が、少しだけ、いつもの顔に戻った気がした。
夕飯のあと、庭に出て、掌を夜空にかざした。
真ん中が、温かい。握らない、持っているだけの入口だった。
爺さんの手は、あの瞬間、開いていた。握る強さではなく、開く勇気のほうが、大事なのかもしれない。三十年握った手だからこそ、開いたときに、あんなにきれいに受け取れたのかもしれない。
握った時間は、無駄ではなかった。
それが、今日の発見だった。
台所では、母さんが薬草を束ねていた。いつもより、手つきがゆっくりだった。
「爺さん、どうだった」
「……静かだった。すごく」
「そう。静かな日は、後から効くのよ」
母さんはそれ以上聞かず、乾いた草の束を、ひとつ俺に持たせた。匂いは、柔らかかった。
縁側で、父さんが一人、湯呑みを両手で包んでいた。指が、湯呑みの腹に添えられているだけだった。
「父さん」
「なんだ」
「……爺さんの、あいつって、誰だと思う」
「知らん」
即答だった。それから、少し間があった。
「だが、明日になれば、分かる」
父さんは空を見た。街道の方角に、小さな火が、まだ立っている。
三日目の火は、いつもより、静かに見えた。
(次回)
第三十九話「開かれる布」
翌朝、爺さんは小屋の前で、灰色の布を静かにほどく。包まれていたものと、一通の手紙が、アレンとエルナの前で明らかになる。三十年の沈黙は、一行目の筆跡から終わり始める。




