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灰を訪ねる者

 翌朝、爺さんは切り株に座ったまま、動かなかった。


 俺とエルナが小屋の前に着いたとき、すでに座っていた。膝に両手を置いて、目は閉じていない。見ているのは、山の下だった。ミレス村の屋根が小さく並び、その向こうに、街道が細い糸みたいに伸びている。


「おはようございます」


「ああ」


 それだけだった。稽古を始めろ、とも言わない。素振りを百、足運びを三十。普段なら、座るなり飛んでくる声が、今日は来なかった。


 俺は木剣を取って、手のひらに入口を持った。置かない。握らない。柄に当てて、振る。


 十回、二十回。入口は軽かった。昨日、庭で見つけた「両端だけ覚えておく」やり方が、体に馴染みかけていた。


 三十回を過ぎたころ、気づいた。


 爺さんの魔素が、いつもと違う。


 静かなのは、いつも通りだ。波のない水面みたいに、全身に薄く行き渡っている。ただ、その水面の一か所、手のひらのあたりだけが、ごく小さく、揺れていた。風のない日に、池の端で水すましが一匹、足を止めたような揺れ方だった。


(……握ってる、のか?)


 違う。握っているなら、魔素は固くなる。これは、固くない。むしろ、緩めようとして、緩めきれずにいる。


 爺さんは、持とうとしている。握らずに、持とうとして、まだ持ち方を探している。


 三十年かけて、人の五倍動いた人が。


 そう思ったら、素振りの手が、少しだけ止まった。


「手を止めるな」


 爺さんは、山の下を見たまま言った。


「はい」


「見るなら、自分の手を見ろ。人の手は、見ても振れん」


 見透かされていた。俺は黙って、百回目まで振った。


 昼前、エルナが小屋の裏から戻ってきた。


「ねえ、アレン。爺さん、今日ずっとあそこだね」


「ああ」


「あの人のこと、待ってるのかな。それとも、来ないでほしいのかな」


 小声だった。切り株までは、十歩ほど離れている。それでも、爺さんの耳なら届くだろう。エルナもそれは分かっているはずで、分かっていて、聞かずにはいられない顔をしていた。


「どっちでも、ないと思う」


「じゃあ、なに」


「……決めてるところ、かな」


 言ってから、自分でも意外だった。決めているところ。その言葉が、いちばんしっくり来た。


 爺さんが座っている切り株は、小屋の前でいちばん見晴らしのいい場所だ。そう思っていたが、今日は少し違って見えた。村が見える。街道が見える。ダンたちの火の煙も、細く立っているのが見える。


 見えるのに、動かない。


 行くか、行かないか。会うか、会わないか。三十年、答えを出さずに持ち続けた何かを、今、この切り株の上で、ひとつずつ置いたり、持ち上げたりしているのだと思った。


(要件定義、ってやつか。……いや、違うな)


 内心で首を振った。要件は、外から来る。これは、爺さんの中から出てくるものだ。仕様書は、どこにもない。


 昼飯の握り飯を、爺さんの分も、切り株の脇に置いた。


 爺さんは手を伸ばさなかった。伸ばさないまま、ずいぶん長いこと、握り飯の白を見ていた。それから、ひとつだけ取って、半分に割り、片方を俺に突き出した。


「食え」


「俺の分は、あります」


「いいから食え」


 受け取った。まだ温かかった。母さんの握り飯は、塩が少し強い。爺さんは自分の半分を、ゆっくり、ひと口ずつ噛んでいた。味わっているのか、何かを飲み込もうとしているのか、横顔からは読めなかった。


 食べ終えても、爺さんは何も言わなかった。ただ、膝の上の両手が、さっきより少しだけ、開いて見えた。


 エルナは、それ以上聞かなかった。代わりに、小屋の脇に落ちていた松の枝を拾い上げ、にっと笑った。


「お茶、淹れてくる。爺さんの分も」


「頼む」


「あんたは素振り」


「分かってる」


 あいつの足音が、軽く土を蹴って遠ざかる。その背中を、爺さんが一度だけ、目の端で追ったのが見えた。


 午後は、エルナの指の稽古だった。


 小屋の前の平らなところに、枯れ葉を三枚、間を空けて並べる。いちばん近くが五歩、次が十歩、いちばん遠くが十五歩。


「順番に、通す」


「狙わない?」


「狙わない」


 あいつは指を立てた。出口を軽く覚えさせるように、一度、息だけを吐く。


 風が出た。一枚目の葉が、ふわりと浮いた。続けて、二枚目も揺れた。三枚目は、動かなかった。


「届かなかった」


「届かなかったな」


「でも、二枚目まで行った。昨日より遠い」


 エルナは悔しそうに言ってから、すぐに、にっと笑った。悔しがる時間が短くなった。握らなくなったぶん、切り替えも早い。


 もう一度。今度は三枚とも、わずかに揺れた。


「やった!」


「通ったな」


 爺さんが、切り株の上で、何も言わずに頷いた。エルナがそれを見て、見えないように、小さく拳を握った。握ったあとで、慌てて開いた。


「いけない。握った」


「大丈夫だ。嬉しいときの握りは、軽い」


「そうなの?」


「たぶん」


「また、たぶんだ」


 笑い合って、稽古を続けた。


 夕方、山を下りる道で、エルナが言った。


「村の外れ、寄っていい?」


「やめとけ、って言ったら」


「言わないでしょ。あんた、気になってるくせに」


 図星だった。父さんは、家にいろ、と言った。昨日の話だ。今日は何も言われていない。言われていないことを、理由にした。


 街道の手前の草地に、焚き火が見えた。荷車が二台。昨日より、荷が少し下ろされている。数人が火を囲んで、鍋のようなものをかき回していた。


 近づきすぎず、道の脇で足を止めた。


 最初に気づいたのは、鍋を持っていた若い男だった。二十歳そこそこの、背の高い人だ。こちらを見て、目を丸くして、それから隣の人を肘でつついた。


 隣の人が顔を上げた。ダンだった。


 ダンは立ち上がらなかった。座ったまま、片手を軽く上げた。


「こんばんは」


 エルナが、先に言った。


「こんばんは。……あ、あたし、エルナっていいます」


「ダンだ。昨日、井戸を借りた」


「知ってます」


 ダンは、それを聞いて、少し笑った。


「嬢ちゃん、昼間、小屋の前で枯れ葉を飛ばしてたろう」


 背中が、ぴくりと動いた。


「……見えてたんですか」


「見えちゃいない。ただ、昨日の朝、この辺りの風が、少しおかしかった。一本の筋になって、山のほうへ抜けてた。今朝もだ」


 エルナの顔が、ぱっと赤くなった。


「それ、あたしです」


「だろうな。見せてくれんか。無理にとは言わん」


 エルナは、横の俺を見た。


 断ってもいい、と目で言ってみた。伝わったかどうかは、分からない。


 あいつは、深く息を吸った。


「やります」


 ダンの前の地面に、若い男が拾った木の葉を、一枚置いた。三歩の距離。


 エルナは指を立てた。目は、葉の向こうの、焚き火の煙の先を見ている。


 手が、わずかに震えているのが分かった。


 寄っている魔素が、硬い。握っている。


「エルナ」


 小さく呼んだ。


「持つだけ、だ」


 あいつの肩が、すとんと落ちた。


 風が出た。草が一筋倒れて、木の葉が、ふわりと浮いた。浮いた葉は、焚き火の煙の中へ流れ込んで、煙を斜めに曲げた。曲がった煙が、ダンの顔の前をなでた。


 ダンは、動かなかった。


 若い男が、ひゅ、と口笛を吹きかけて、慌てて止めた。


「……足じゃなく、指から出すのか」


 ダンが、ゆっくり言った。


「はい。昨日、やっと」


「昨日」


 ダンは、噛みしめるように繰り返した。それから、エルナではなく、俺のほうを見た。


「その子の風は、お前さんが教えたのか」


「違います。俺は、行き先を変えただけです」


 ダンは、笑わなかった。目の奥で、何かを数えるような顔をして、短く言った。


「そうか」


 それだけだった。


 立ち去るとき、ダンは声をかけなかった。ただ、俺たちが背を向けたあと、背中に視線が残っているのは分かった。重くはない。握られても、いなかった。持たれている、と感じた。


 家に着くと、父さんが戸口に立っていた。


 叱られると思った。街道の火を見に行ったのは、俺が自分で決めたことだ。


 父さんは、何も言わなかった。俺の顔を見て、それから、俺の後ろ、夜に溶けかけた道の先を見た。


「飯だ」


 それだけ言って、背を向けた。


 母さんが、いつもより大きな鍋を火にかけていた。


 夕飯は静かだった。匙の音と、火の爆ぜる音だけが、土間に響いた。誰も、街道の話をしなかった。それでも、父さんが一度だけ、窓の外の遠い火に目をやったのを、俺は見ていた。


 床に就く前、母さんが、枕元に薬草の小袋を置いていった。


「眠れない夜用よ。焚き火の煙を見て、考えすぎないようにね」


「考えすぎてる顔、してた?」


「してたわ。お父さんと同じ顔」


 母さんは笑って、灯りを落とした。同じ顔、と言われて、悪い気はしなかった。ただ、握る癖まで似るのは困る。そう思いながら、俺は小袋の匂いを吸い込んだ。乾いた草と、少しの甘さ。


 布団に入ってから、掌を、天井にかざしてみた。


 真ん中が、温かかった。握らない。持っているだけの、入口。


 爺さんは、持ち方を探していた。


 三十年かけて、まだ探している。


 それなら、俺が探し続けていることも、きっと、間違いではない。


 窓の外で、小さな火が、揺れもせず、夜に立っていた。


 あと、二日。


(次回)

第三十八話「三日目の朝」


 街道の火は三日目を迎える。山を下りてきた爺さんは、ダンと向き合い、アレンは少し離れた場所から二人の会話を聞くことになる。三十年分の沈黙に、最初の一言が落ちる。

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