街道の火
戸を叩く音は、三度だった。間をおいて、三度。急がない叩き方だ。
朝飯の匙を置いて、父さんがゆっくり立ち上がった。母さんは薬草をすりつぶす手を止めて、俺を一度だけ見た。俺は動かなかった。家にいろ、と言われている。
父さんが戸を開けた。
朝の光の中に、男が一人立っていた。四十を過ぎたくらいか。日に焼けた顔に、短く刈った髭。旅の汚れた外套の下に、使い込んだ革の胴当てが見える。背には、昨日見た灰色の布の包みを負っていた。
「朝早くにすまん。水を分けてもらえんか。それと、道を少し尋ねたい」
「水は裏の井戸だ」
父さんは顎で裏を示した。男は頭を下げたが、動かなかった。
「ガイ・ミラー、だな」
土間の空気が、隅まで固まった。
父さんは答えなかった。否定もしなかった。
「右頬の傷で分かった。先に名乗る。ダンという。街道を回って荷を運んでる。外の連中は、その仲間だ」
「用は」
「人を探してる。この山の上に、昔、剣を使ってた爺さんが住んでると聞いた」
俺は手のひらを握りかけた。握らなかった。握れば入口が重くなる。昨日、そう学んだばかりだ。
息をひとつ吐いた。手のひらの真ん中は、温かいままだった。
「知らん」
父さんは言った。
「そうか」
ダンはあっさり頷いて、それでも引かなかった。
「知らんならいい。俺たちは、あと三日、街道の脇で火を焚いてる。思い出したら、声をかけてくれ」
帰りかけた男の目が、土間の奥の俺で止まった。
「息子さんか」
「そうだ」
「……黒、か。珍しいな」
髪と目のことだ。村の人間は慣れて、もう誰も口にしない。ダンの声に、嫌なものはなかった。ただ、なにかを確かめるような響きがあった。
「失礼した」
戸が閉まった。
父さんは、閉まった戸を見たまま、動かなかった。体の横に垂れた右手の親指が、手のひらの真ん中に、強く食い込んでいた。
(握ってる)
見えてしまった。弱い火を十年磨いた手が、握りしめられている。握った入口は、重い。
俺は、何も言わなかった。
ダンは、裏の井戸で水を汲んでいた。母さんに頼まれた桶を持って行った俺は、少し離れた場所で足を止めた。
男の魔素は、静かだった。
静かすぎる、と言ったほうが近い。大人の魔素は、普通、胸のあたりに濃く溜まる。この男のは、全身に薄く、均等に、行き渡っていた。波のない水面みたいに。爺さんの小屋の前に座っているときの、あの感じに似ていた。
(……同じ型だ)
剣を使う人間の、立ち方だった。灰色の布の包みは、地面に置かれても、男の指の届く距離にあった。
男は桶を満たして、柄杓で水を一杯だけ飲み、俺に気づいて、軽く手を上げた。それだけだった。何も聞かず、何も言わず、背を向けた。
見られている、とは思わなかった。見られていない、とも思わなかった。ただ、俺のほうが、先に目をそらさなかった。
父さんは朝のうちに、山へ登っていった。
「今日の稽古は休みだ。爺さんには、俺が話す」
それだけ言い残して、振り向きもしなかった。
入れ違いのように、エルナが来た。戸口で足を止めて、道のほうを振り返る。
「さっきの人、うちの前も通ったよ。水汲みに来たみたいだった」
「何か言ってたか」
「あたしの顔、見て、笑っただけ。……ねえ、あの人、アレンの髪、見てなかった?」
「見てた」
「やっぱり」
エルナは、わざとらしく鼻を鳴らした。
「失礼だよね。きれいなのに」
不意打ちだった。さらっと言う。本人は、気づいていない顔だ。俺は、手のひらに意識を集めて、赤くなるのをこらえた。
「……庭、行くか」
「行く。指、やりたい」
庭の端に、薪を割った切り株が並んでいる。エルナは、いちばん遠い切り株の上に、枯れ葉を一枚載せた。
「今日も狙わない」
「ああ」
「通すだけ」
あいつは指を立てた。目は、枯れ葉を見ている。見ているが、握っていない。昨日の松で掴んだ感覚を、まだ手放さずにいる。
風が出た。
地面の草を一筋倒して、切り株の縁をなぞり、枯れ葉がふわりと浮いた。
「一回」
数えたのは、あいつ自身だった。
「もう一回」
二回目。枯れ葉が落ちる前に、風がまた通った。落ちかけた葉が、宙で向きを変えて、元の切り株に戻った。
「──できた! 二回続いた!」
「二回目のほうが、軽かったな」
「うん。一回目で、出口が覚えてくれた感じ」
出口が覚える。俺が手のひらの入口に感じていることと、同じ言い方だった。
入口と、出口。
流れの両端に、覚えている場所がある。間をどう通すかは、毎回違っていい。両端だけ軽く持っていれば、通る。
それは、昨日の「握るな、持て」の、もう一歩先の話だった。
試しに、俺も木剣を取って、庭で振ってみた。入口を持つ。出口も、軽く持つ。その間を、どう通るかは、振りが勝手に決める。
十回、二十回。通り道は、毎回違った。ある回は直線で、ある回は少し曲がった。それでも、両端は同じ場所を覚えていた。
爺さんがいたら、何と言うだろう。たぶん、何も言わない。口の端だけ、動くのだろう。
(要するに、両端のインターフェースだけ固めておけば、中身は差し替え自由、ってことか)
前世の言葉が、勝手に口の中で転がった。口には出さなかった。エルナは、すでに三回目の準備をしていた。
三回目は、通らなかった。風は途中で散って、枯れ葉は動かなかった。
「あれ」
「いい。今のは、握ってた」
「分かるの?」
「顔が、さっきと違う」
エルナは頬を膨らませて、それから、ふっと遠くを見た。
「ねえ。あの人、山のほう、ずっと見てたよ。水を汲むあいだも。うちの前を通ったときも」
「……そうか」
「爺さんのこと、探してるんでしょ。会わせるの?」
答えられなかった。決めるのは、父さんだ。爺さんだ。俺ではない。
ただ、点の数だけが、静かに増えていく。灰色の布。三十年前。右頬の傷。知らん、と言った父さんの手。
全部が線になる日は、まだ遠い気がした。遠いままでいい、とも思った。今は、ただ持っているだけでいい。
昼過ぎに、母さんが縁側から声をかけた。
「二人とも、休憩。お茶」
縁側で、薬草茶をすすった。母さんは俺の隣に座って、遠い街道のほうを見た。
「アレン。さっきの人、怖かった?」
「怖くは、なかった」
答えてから、自分で驚いた。本当に、怖くなかった。
知らない大人が、父さんの名を呼んで、土間に立った。昔の俺なら、肩が上がって、息が浅くなっていた。前世の会議室で、怒鳴られる前の、あの体の縮み方だ。
今朝は縮まなかった。手のひらに入口を持ったまま、息をひとつ吐けた。握らずに、持ったまま、人と向き合えた。
「怖くなかった。……ただ、父さんが握ってた」
「握ってた?」
「手を。……ううん、なんでもない」
母さんは、それ以上聞かなかった。湯呑みを両手で包んで、少しだけ笑った。
「あの人はね、昔から、大事なことほど握りしめるのよ。握らないと落とすと思ってるの」
「落とさない?」
「落とさないわ。握るのをやめた手でも、ちゃんと持てるのにね」
母さんは、父さんの昔を知っている。そのうち全部、聞ける日が来るのかもしれない。点がまた、一つ増えた。
夕方、山から戻った父さんは、土間で革の靴を脱ぎながら言った。
「爺さんは、来るなら来い、と言った」
それだけだった。
誰が来て、何のために来るのか。爺さんが、今何を思っているのか。聞きたいことは山ほどあった。聞かなかった。聞けば、父さんは「まだだ」と言う。
代わりに、俺は言った。
「父さん」
「なんだ」
「手、握りすぎると、重くなる」
父さんは靴の紐を持ったまま、顔を上げた。
「入口が重くなるんです。剣でも、風でも。……だから、持つだけでいいって、爺さんが」
父さんは、俺の顔を見て、それから、自分の右手を見た。手のひらの真ん中に、爪の跡が、赤く残っていた。
ゆっくり、指を開いた。
「……そうか」
それだけ言って、父さんは立ち上がり、奥へ行った。足音が、いつもより少しだけ、軽かった気がした。
母さんが、台所で、何も言わずに湯を沸かし直していた。背中が、ほんの少しだけ、緩んで見えた。握っていた手は、見ているほうにも、移るらしい。解けるときも、同じだ。
夕飯は、いつもより静かだった。誰も、街道の話をしなかった。匙の音と、火の爆ぜる音だけが、土間に残った。それでも、嫌な静けさではなかった。
夜、窓の外を見た。
村の外れ、街道のあたりに、小さな火が見えた。細く、まっすぐ、夜に立っている。ダンたちの火だ。
あと、三日。
火は、消えもせず、揺れもしなかった。
掌が、ほんのり温かかった。握らない。持っているだけの、入口だった。
(次回)
第三十七話「灰を訪ねる者」
街道の火は二日目の夜を迎える。ダンは村の人々には何も語らず、ただ山のほうを見ている。アレンは、爺さんが小屋の前で長く動かずにいる理由に気づく。エルナの風は、初めて「人の前」で試される。




