入口の重さ
朝いちばんの入口は、重かった。
手のひらの真ん中に、点を置く。昨日と同じ場所、同じ大きさのつもりだった。それなのに、木剣を握った途端、点が鉛の粒みたいに沈んで、先端へ伸ばす道が、細く引きつった。
「どうした」
「入口が、重いです」
「昨日は」
「軽かった」
爺さんは切り株の上で、鼻から息を抜いた。
「なら、今日は重い日だ。そういう日もある」
「そういう日で、済ませていいんですか」
「済ませるな。調べろ。ただし、剣を振りながらだ」
調べろと言って、やり方は教えない。いつもの爺さんだった。
俺は素振りを始めた。点を保ったまま、百回。数えながら、何が違うのかを探した。
結果は、散々だった。三十回目で点が潰れ、六十回目でもう一度潰れ、八十回を過ぎたあたりで、そもそも点を置いたのかどうかも怪しくなった。
(ログがない。再現条件も不明。……最悪の障害報告だ)
前世の俺なら、そう書いて、上に投げた。ここに、投げる先はない。
木剣の先で、朝露が一粒、ぽとりと落ちた。落ちたところで、土が小さく黒くなる。それを見ているうちに、気づいた。俺は、落ちた粒の大きさばかり気にしている。落ちる前の、葉先で揺れている時間のことは、考えていなかった。
点は、大きさじゃない。たぶん、それより前に何かがある。そう思ったが、その「何か」には、まだ名前がなかった。
昼の弁当は、小屋の前の日だまりで食べた。母さんの握り飯と、干した茸の煮付け。エルナの分は、あいつの母親が持たせた芋だった。
「アレン、さっきからずっと手、見てる」
「見てない」
「見てる。ごはん食べてるのに、ずっと手のひら」
言われて、握り飯を持つ自分の手に気づいた。確かに、親指の付け根のあたりを、無意識に確かめていた。
「爺さんは、入口が重い日、どうしてたんですか」
聞くつもりのなかった言葉が、口から出ていた。
爺さんは、芋を齧る手を止めた。しばらく、山の方を見ていた。
「剣を折った」
「え」
「十四のときだ。握りすぎて、刃が耐えられなかった。師の剣だった」
短く、それだけ。エルナが、芋を持ったまま固まっていた。
「折れたあとで、師に言われた。剣は握るな、持て、と。……意味が分かったのは、ずっと後だ」
「今は、分かるんですか」
「分かった気になっとる。それで十分だ」
爺さんは、残りの芋を口に放り込んで、立ち上がった。
握るな、持て。
点を置こうとした朝の俺は、握っていた。握っていることにも、気づかなかった。
昼前、エルナが松の枝に、枯れ葉を一枚ぶら下げた。細い蔓で、指一本ぶんの高さに。
「あれに当てる。今日はあれ」
「届くのか。松は、遠いぞ」
「だから当てるの。遠いから」
あいつは指を立てて、枯れ葉だけを見た。息を吸う。
風は、出た。出たが、枯れ葉の手前の草が揺れただけで、枝までは届かなかった。
「むう」
二度目も、手前で止まった。三度目は、枯れ葉を通り越して、松の幹を撫でた。
「当たらない!」
「通り越した」
「分かってるってば」
あいつは地団駄を踏んで、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……ねえ。あたし、さっきから、当てようとしてる」
「当てるんだろ」
「そうじゃなくて。当てよう、って、握ってる。指の先を」
言われて、見てみた。確かに、エルナの指先に寄った魔素は、いつもより硬かった。ぎゅっと握りしめた拳みたいに。
握りしめた入口は、重い。
そう思った瞬間に、頭のどこかが、かちりと鳴った。
「エルナ。それ、俺もだ」
「え?」
「俺の入口が重いのも、握ってるからかもしれない」
俺は木剣を下ろして、手のひらを見つめた。今朝、俺は何を考えて点を置いたか。昨日の軽さを、再現しようとした。昨日と同じ重さにしよう、同じ大きさにしよう、と。
再現しようとして、握った。
「昨日の点を、探してた。……探したら、消えるのに」
十一話の雪の三日間と、同じことをやっていた。
探すのをやめたら戻る。体得したはずの教訓を、一年も経たないうちに、また踏んでいる。
(学習したつもりで、別の場所で同じバグを出す。あるある、だな)
内心でそう呟くと、少しだけ肩が軽くなった。
午後は、点を探さずに素振りをした。
置こう、としない。握ろう、としない。ただ、柄に手のひらを当てて、振る。気がつけば、手のひらの真ん中が、勝手に温かくなっている。それを、入口と呼ぶことにした。
三十回、点は潰れなかった。六十回も、潰れなかった。
「軽いな」
自分で、ぽつりと言った。
爺さんは、何も言わなかった。ただ、切り株の上で、小さく頷いたように見えた。
その横で、エルナが、また指を立てた。
「当てない。通す」
あいつは、そう呟いた。
松の枝の枯れ葉は、見ている。見ているが、当てようとはしない。風の通り道だけを、ぼんやり思っている。
指先から、風が、すっと出た。
出た風は、草を一列倒し、松の下を抜けて、枝の枯れ葉を、ふわりと持ち上げた。持ち上がった枯れ葉は、蔓の先で、一度だけ、くるりと回った。
「当たった……!」
「当たった」
「当てようとしなかったのに、当たった!」
エルナは、飛び上がって、その勢いのまま俺の背中を叩いた。痛かった。痛かったが、悪い気はしなかった。
爺さんが、切り株の上で、ぼそりと言った。
「狙うな。通せ。……剣も、同じだ」
それだけで、十分だった。
夕方、山を下りながら、俺は考えた。
入口の重さは、量れない。少なくとも、今の俺には。
量ろうとした時点で、握っている。握った入口は、重い。重さを量るために握ると、量りたかった軽さが、消える。
これは、観測すると状態が変わる、というやつだ。前世の言葉で言えば、そうなる。
ただ、一つだけ、分かったことがあった。
重さは、量でも大きさでもなく、握り方で決まる。
それは、小さいけれど、確かな発見だった。
山道の途中で、エルナが足を止めた。
「ねえ、あれ」
指さす先は、村の外れ。街道に続く道の、手前の草地だった。
荷車が二台と、人影が五つか六つ。幌馬車ではない。ロドの馬車とは違う、黒ずんだ、古い荷車だった。
誰かが、道の脇に座り込んでいる。火を焚いている煙が、細く上がっていた。
「ロドさん……じゃないよね」
「違う」
「旅の人かな。この辺、あんまり通らないのに」
ミレス村は、東辺境の、さらに端だ。街道は通っているが、ここで止まる旅人は、行商人のほかに、あまりいない。
荷車の横に、長い布に包まれた何かが、立てかけてあった。細長い。剣にしては、長すぎる。
父さんなら、見ただけで分かるのかもしれない。
「行ってみる?」
「やめとけ」
自分でも驚くほど、短い声が出た。父さんの口癖に、似ていた。
「暗くなる。母さんが待ってる」
「そっか」
エルナは素直に頷いて、それでも、振り返って、もう一度だけ荷車を見た。
俺も、見た。
焚き火の横の、布に包まれた細長いもの。その先端が、夕日を受けて、一瞬だけ、鈍く光った。
分からないものは、点だ。
点が一つ、また、増えた。
夕飯の席で、俺は村外れの荷車の話をした。
「旅の人が、街道の脇で野営してた。六人くらい。荷車が二台」
匙を持つ母さんの手が、少しだけ止まった。
「この時期に、珍しいわね」
父さんは、何も言わなかった。碗を置いて、窓の方を見た。外は、もう暗い。
「布に包んだ、細長いものがあった。剣にしては長い」
そこまで言ったとき、父さんの視線が、俺に戻ってきた。
「……何色の布だ」
「灰色。端が、擦り切れてた」
父さんは、それだけ聞いて、また黙った。右頬の古傷が、灯りの陰で、深く見えた。
「明日は、家にいろ」
短い声だった。理由は、なかった。
「はい」
俺は頷いた。聞かないことにした。聞けば、父さんは「まだだ」と言う。それは、もう知っている。
母さんが、そっと俺の碗に、煮豆を足してくれた。
掌の真ん中が、まだ、ほんのり温かかった。握っていない。持っているだけの、入口だった。
(次回)
第三十六話「街道の火」
村の外れで野営していた旅の一行は、翌朝、ガイの家の戸を叩く。アレンは手のひらの入口を保ったまま、初めて知らない大人と向き合う。エルナは、その日の稽古で、狙わない風を二度続けて通す。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございます。玲鈴です。
今話は「探すと逃げる」を、アレンが一年ぶりにまた踏んでしまう回でした。皆さんにも、頑張るほど空回りした経験はありますか?
もし続きが気になっていただけたなら、ブックマークをひとつ置いていただけると、とても励みになります。次回は、街道の旅人が動き出します。




