指の風
翌朝、小屋の前で、エルナが指を立てた。
「見て」
人差し指を、地面の小石に向ける。息を吸って、止める。
小石は、動かなかった。
「……あれ」
「力んでる」
「力んでない。出そうとしてるだけ」
「それが力みだ」
あいつは唇を尖らせて、もう一度やった。指先に、魔素が寄っているのは見える。昨日、筆を握ったときと同じ場所だ。寄って、膨らんで、そこで止まっている。出口が見つからない顔をしていた。
三度目で、小石が一つ、ころんと転がった。
「出た!」
「指一本ぶんくらいな」
「いいの。出たんだから」
切り株の上で、爺さんは黙って見ていた。膝に両手を置いたまま、目だけが、エルナの指先を追っている。止めもしない。教えもしない。ただ、見ていた。
エルナは、それから半刻、指を立て続けた。出る日の風は、小石をひとつ転がす。出ない日の風は、息だけが漏れる。足から出るときの、あの突き抜ける風とは、まるで別物だった。
「ねえ、なんで足だと出るの」
あいつが、肩で息をしながら聞いた。俺に聞いたのか、爺さんに聞いたのか、分からなかった。
「エルナ」
爺さんが、初めて口を開いた。
「走るとき、足を見るか」
「見ない。先」
「先のどこだ」
「えっと……この木の向こう、とか。あの岩、とか」
「今は」
「指」
あいつは、はっとして、自分の指を見た。指が、指を見ていた。
爺さんは、それ以上言わなかった。切り株の上で、また目を閉じた。
俺は、横で聞いていて、背中が少し冷えた。
走るときのエルナは、行き先を見ている。魔素は、踵に溜まる。見ているのは足ではない。なのに溜まるのは、足だ。
今日のエルナは、指を見ている。魔素は、指に溜まっている。そして、出ない。
(見てる場所に、溜まるんじゃない)
逆だ。たぶん、逆だった。
走るとき、あいつは「行きたい先」を見る。体は、そこへ向かうために、地面を蹴る。蹴る場所が、踵だ。魔素は、見た場所ではなく、「行き先へ向かう道の、いちばん最初の場所」に溜まる。
指から出ない理由は、指を見ているからではない。指の先に、行き先がないからだ。
「エルナ。小石じゃなく、あの木を見ろ」
「木?」
「あの松。指は、見るな。松に、風を当てるつもりで」
あいつは、半信半疑の顔で、指を立てた。目は、遠くの松に向けた。
息を吸った。
寄っていた魔素が、指先で、一度だけ揺れた。それから、すっと、前へ伸びた。
風が、出た。
小石ではなく、足元の草が、一列、松の方へ倒れた。倒れた草の筋が、五歩ぶん、まっすぐ伸びた。
「──出た」
エルナの声が、小さくなっていた。嬉しいときほど、声が小さくなる。この数年で知ったことだ。
「あんた、今、何したの」
「何も。行き先を、変えただけ」
「行き先」
「お前の魔素は、行き先が決まれば、そっちに出る。足でも、指でも」
あいつは、倒れた草の筋を、じっと見ていた。それから、にやりと笑った。
「じゃあ、あたしの風、どこからでも出せるってこと?」
「……たぶん。練習すれば」
「たぶん、ばっかり」
「分かってないことが、多いんだ」
切り株の上で、爺さんの口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかどうかは、いつも通り、読めなかった。
昼を過ぎて、俺は木剣を握った。
手のひらの真ん中を、柄に当てる。流す。通る。一息で、通るようになっていた。
そして、切れる。爺さんに叩かれれば、切れる。
切れたあとを、つなぎ直すのに、まだ二息かかった。
エルナの風を見て、気づいたことがあった。
流れは、行き先に引かれる。なら、俺の魔素が木剣の中で散るのは、行き先が、はっきりしていないからではないか。柄の先端まで、行き先は決まっている。けれど、切れた瞬間、流れは行き先を失って、手のひらの手前まで戻ってしまう。
戻る。そして、最初から、道を探し直す。
それが、二息かかる理由だとしたら。
(……全部、先へ出すから、戻る)
流れの全部を、先端へ送っている。だから、切れたとき、手元に何も残らない。
残せばいい。
全部を出さず、手のひらに、ひと握りだけ、留める。先端へ行く流れとは別に、手のひらの中心に、小さな溜まりを、一つ置いておく。
できるのか。
やってみた。
最初の三回は、手のひらの溜まりが、先へ引かれて、消えた。次の三回は、溜まりに気を取られて、先端の流れが細くなった。
七回目に、二つが、同時に立った。
手のひらに、小さな温かい点。そこから伸びる、細い道。柄を通って、先端まで。点は動かない。道だけが、通っている。
(……分かれた)
流れが、二本になった、というより、一つの流れの中に、動くものと、動かないものが、並んだ。
「爺さん」
「なんだ」
「叩いてください」
爺さんは、切り株から下りて、木剣を取った。
叩かれた。
先端の流れが、切れた。木剣が、一瞬だけ、重くなった。
けれど、手のひらの点は、残っていた。
残った点から、もう一度、道を伸ばした。道は、探さなくてよかった。点が、道の入口を覚えていた。
半息で、つながった。
木剣が、また軽くなった。
「……分けたか」
爺さんは、短く言った。
「はい。手のひらに、少しだけ、残しました」
「俺は、教えとらん」
「エルナの風を見てて、気づきました」
爺さんは、しばらく、俺の手のひらを見ていた。木剣ではなく、手のひら。そこに何があるのか、爺さんには見えていないはずだ。それでも、見ているような目をしていた。
「もう一度、叩く」
「はい」
叩かれた。切れた。残った。つないだ。
叩かれた。切れた。残った。つないだ。
七回目に、点も、切れた。
二息、かかった。
「欲張るな」
爺さんは言った。
「残す量が、多すぎた。残すのは、入口だけだ」
「入口だけ」
「入口が重ければ、動けん。……今のお前には、それが分かればいい」
爺さんは、また、切り株へ戻っていった。背中が、いつもより少しだけ、ゆっくりだった。
夕飯の席で、父さんが、匙を持つ俺の手を見た。
見ただけだった。何も言わない。匙を口に運ぶ手が、手のひらの真ん中を、柄に当てるのと同じ形で、匙の根元を押さえていた。自分でも、さっき気づいたところだった。
「アレン、今日は、よく食べるのね」
母さんが、おかわりをよそいながら言った。
「腹が、減ってて」
「剣のあとは、そうよ。魔素も、腹に来るんでしょう」
母さんは、魔素を見ない人だ。見ない人の言葉は、時々、見える人より正確だった。使ったぶんは、腹が減る。それだけのことを、そのまま言う。
「ガイ。あなたも、おかわり」
「……いい」
父さんは、短く答えて、匙を置いた。置いてから、自分の右手を、一度だけ、ひっくり返して見た。手のひらの真ん中。弱い火を、十年磨いた手だ。
父さんは、そこに何があるのか、見ようとしていた。見ているのに、見ないふりをしていた。
俺は、碗の縁ごしに、それを見ていた。見ていることは、言わなかった。
あの手のひらにも、入口が、あるのかもしれない。
そう思ったことは、点にして、胸の奥へしまった。
夕方、村へ下りる道で、エルナが立ち止まった。
「見てて」
あいつは、道の端の、枯れ葉に向けて、指を立てた。目は、遠くの柿の木に向けている。
枯れ葉が、一枚だけ、ふっと浮いた。浮いて、柿の木の方へ、三歩ぶん、流れた。
「どう?」
「できてる」
「足じゃなくて、指だよ」
「見てた」
エルナは、満足そうに頷いて、それから、少しだけ声を落とした。
「ねえ、アレン」
「ん」
「あたしの風、足以外から出たの、あんたの前が初めて」
足が、少し止まった。
「あんたの隣にいると、出るのかな。それとも、あたしが、変わったのかな」
どっちだ、と聞かれても、俺には答えがなかった。昨日までの俺なら、答えを探した。見えるもので、確かめようとした。
今日は、探さなかった。
「……分からん。点だ」
「点」
「今は点でいい。線になる日が、来る」
エルナは、少し笑って、枯れ葉の落ちた先を見た。
「あんた、その言い方、好きだよね」
「便利なんだ」
便利だ、とは、前世でもよく言った。仕様未確定、保留、要確認。確認できるまで、点のままにしておく。点にしておけば、嘘にならない。
掌が、まだ温かかった。
手のひらの真ん中に、小さな点が、残っていた。木剣を置いたあとも、消えない。入口だけ、残してある。
この点は、何の入口なのか。
まだ、分からない。
分からないものは、点だ。
点が、また一つ、増えた。増えたぶんだけ、歩く足が、少しだけ軽かった。
(次回)
第三十五話「入口の重さ」
手のひらに残した入口は、日によって重さが違う。アレンは入口の量を量る方法を探し、エルナは指の風で初めて「狙った場所」に当てる。稽古の帰り、ミレス村の外れで、見慣れない旅の一行を見かける。




