墨の匂い
墨の匂いは、思っていたより、土に近かった。
瓶の口を開けた途端、土間に、雨上がりの畑みたいな匂いが広がった。母さんが奥から顔を出して、鼻を一度だけ動かして、また引っ込んだ。薬草の匂いと、墨の匂いが、しばらく混ざっていた。
紙は、一枚ずつ、机がわりの板の上に置いた。ロドが筆も一本つけてくれていた。細い竹の先に、獣の毛を束ねたやつだ。前世で、小学校の習字以来、握ったことがない。
(三十年ぶりの、書き初め)
板を見ながら、一行目を書いた。
滲んだ。
「石」の字の最初の一画が、太く広がって、横の線とくっついた。紙の目に、墨が吸われていく。見ている間に、字が、字でなくなった。
二行目。滲んだ。
三行目。筆を速くした。かすれた。かすれて、途中で墨が切れて、線が途切れた。
紙は、板と違った。板に炭で引いた線は、引いたとおりに残る。紙は、引いたものを、紙のほうで勝手に育てる。
「……読めませんね、これ」
独り言が出た。奥から、母さんの肩が揺れる気配だけがした。
一枚、無駄にした。ロドがくれた紙は、二十枚ほどだ。写すのは八枚。無駄にできるのは、あと十二枚もない。
筆を置いて、手を見た。
昨日、小屋の前で見た手だ。手のひらの真ん中を、柄に当てた手。
筆は、柄より細い。細いから、指先だけで持っていた。親指と人差し指と中指で、鉛筆を持つみたいに。前世の持ち方だ。
持ち直した。指で持つのをやめて、手のひらに、軽く、竹の根元を当てた。
書いた。
滲んだ。だが、少しだけ、ましだった。
もう一度見た。滲むのは、筆を止めたところだった。一画目の始まり。線の終わり。止まると、そこに墨が溜まる。溜まったぶんが、紙に吸われて、広がる。
流れているときは、滲まない。
(……止めると、溜まる。溜まると、散る)
昨日の木剣と、同じだった。流れを止めて、出そうとしたら、散った。止めずに伸ばしたら、通った。
紙の上で、筆を止めないようにした。始まりで止まらず、終わりで止まらず、次の画へ、空中で筆を運んだまま、紙に戻す。線は、まだ太い。まだ下手だ。それでも、滲まなかった。
四行目で、初めて、自分の字が、自分で読めた。
「アレン」
母さんが、いつの間にか後ろに立っていた。
「筆、止まらなくなったわね」
「止めると、滲むんです」
「薬を煎じるときも、同じよ。火を止めると、匂いが煮詰まる」
母さんは、俺の肩越しに紙を覗いて、それから、少しだけ首を傾げた。
「字は、まあ、読めんでもない」
ヤーゴさまの真似だった。俺が笑う前に、母さんのほうが先に笑った。
翌朝、エルナが来た。
来たのはいいが、戸口で止まった。土間の板の上に、紙と墨と筆が置いてある。それを見て、あいつは、動かなくなった。
「……入れば」
「入る。入るけど」
「けど、何」
「あたし、それ、持ったことない」
筆を指して、言った。板に炭で丸を描いていたあいつが、筆を怖がっている。怖がる、というのとは少し違う。欲しいものを前にして、手を出す前に、一度止まる顔だった。
「同じだ。炭と」
「同じじゃないでしょ。炭は、間違えたら擦れば消える」
「紙も、消えない。だから、止まるな」
「何それ」
それ以上は説明しなかった。説明より、持たせたほうが早い。
エルナは、土間に座って、筆を握った。握った、というより、掴んだ。拳の中に、竹が隠れた。
「……力、抜け」
「抜いてる」
「抜いてない。魔素が、指に集まってる」
見えていた。あいつの魔素は、いつもなら踵に溜まる。走るときも、打つときも、右足の踵だ。それが今、五本の指の先に、小さく寄っていた。踵からは、抜けている。
(溜まる場所が、動くのか)
初めて見た。あいつの魔素が、足以外に寄るのを。
「丸、描け。四枚目の、五日目の行」
俺が紙を差し出すと、エルナは息を吸って、止めて、筆を紙に下ろした。
下ろした瞬間、風が、吹いた。
土間の中で、だ。戸は閉まっている。なのに、俺の前髪が、ふっ、と動いた。板の上の紙が一枚、端から浮いて、裏返った。墨の瓶の口で、匂いが一度、揺れた。
エルナの指先から、出ていた。
寄っていた魔素が、紙に筆が触れた、その一点で、膨らんで、散った。踵から出るときと同じ形だった。溜まって、膨らんで、出る。出る場所が、足ではなく、指だっただけだ。
「──あ」
あいつが、固まっていた。筆の先は、紙の上にある。描けていない。丸の最初の一点が、風で、横に引き伸ばされて、短い線になっていた。
「……今の、あたし?」
「お前だ」
「足じゃなかった」
「指だった。筆を、気にしすぎてた。気にしたところに、寄る」
エルナは、自分の指先を見た。見ても、何もない。見えない。それでも、しばらく見ていた。
「あたしの風、指からも出るんだ」
「出る。今、出た」
「……走るとき以外で、出たの、初めてかも」
あいつの顔が、ゆっくり、変わっていった。固まっていた口元が、むずむずして、それから、いつもの顔に戻った。いつもより、少しだけ、嬉しそうな顔に。
「もう一回」
「止まるな。描きはじめたら、丸が閉じるまで、筆を止めるな」
「分かった」
分かっていない顔で言って、あいつは筆を下ろした。風は、吹かなかった。丸は、歪んだ。歪んで、最後が、始まりと少しずれた。
「……丸じゃない」
「丸だ。お前の丸だ」
書き役の丸じゃない。あいつが見た、あいつの手の、丸だった。
五日目の行に、歪んだ丸が、乗った。
あいつは、筆を置いてからも、しばらく紙から目を離さなかった。板の丸は、擦れば消えた。紙の丸は、消えない。消えないものを、初めて、自分の手で置いた顔だった。
「ねえ。これ、街まで行くんでしょ」
「行く」
「あたしの丸、街の人が見るんだ」
「見る。意味は、分からんと思うけど」
「分かんなくていい。あたしが見たって、分かればいい」
板を押し出したときの、ヤーゴさまの言葉を思い出した。見られん者が、見た者の話を、持っていていいか。あいつは、聞かれる前から、答えを持っていた。
八枚を写し終えたのは、昼を過ぎてからだった。
幌馬車のところへ、俺とエルナで持っていった。父さんが、少し後ろを歩いてきた。何も言わなかった。
ロドは、敷物の上で、紙を一枚ずつ受け取った。板を読んだときと同じ、軽くない目で読んだ。一枚目の滲んだところで、鼻を鳴らした。四枚目の歪んだ丸で、エルナを見た。
「これか」
「あたしの」
「分かる。お前の丸だ」
エルナが、胸を反らした。
ロドは八枚を揃えて、油紙で包んで、荷の奥に入れた。
「街まで、十日だ。ギルドが読むのに、また十日。返事は、来んかもしれん」
「来なくても、いいです」
「来んでも、届いてはいる。それでいいなら、それでいい」
ロドは、荷の口を縛りながら、俺を見ずに言った。
「坊主。字、滲んどったな。一枚目」
「……はい」
「二枚目から、止まらんようになっとった。一日で、誰に習った」
「誰にも。……昨日、木剣で、同じことをしました」
ロドの手が、紐の上で、一度止まった。止まって、それから、何も聞かずに、紐を結び切った。
「そうか」
父さんと、同じ言い方だった。この村の大人は、聞かないことで、聞いている。
それで、終わりだった。終わりのはずだった。
ロドが、立ち上がって、幌馬車の陰へ回った。父さんが、そっちにいた。
俺は、敷物の前に残った。残って、並んだ小瓶を見るふりをした。エルナは染料の色を見ていた。本当に見ていた。
幌の向こうから、ロドの声がした。低かった。
「ガイ。あの印の話だが」
父さんは、何も言わなかった。
「坊主が札を立てた、あの窪みだ。……お前、場所、分かってて行かせたのか」
風が、幌を鳴らした。エルナの風ではない。ただの、昼の風だ。
「分かってた」
父さんの声だった。
「三十年前と、同じ場所だ」
ロドが、言った。三十年前。ヤーゴさまが、帳の前で止まる、あの三十年前だ。閉めた、とだけ書いてある、あの年。
「……その話は、まだだ」
父さんが、言った。
「まだ、か」
「まだだ」
それきり、二人は黙った。黙って、何かを、頷き合ったのだと思う。見えなかった。幌の向こうだ。
(まだ、ということは、いつかは、ある)
俺は、小瓶を見ていた。ガラスの中で、昼の光が、少し歪んでいた。
あの窪みに、三十年前、誰かがいた。父さんは、それを知っていて、俺を行かせた。知っていて、札の前で止まった。
分からないものは、点だ。
点が、今日、一つ増えた。増えたぶんだけ、線の形が、少しだけ、見えそうで見えない。
板に線を引いた日と、同じだ。同じ長さの日が続いて、ある日、急に短くなる。線になる日は、たぶん、急に来る。
帰り道、エルナが聞いた。
「あんたの父さんとロド、何の話してたの」
「……分からん」
「ふうん。でも、聞いてたでしょ」
「聞いてた」
「あたしも」
あいつは、自分の指先を、また見た。
「あたしの風、指から出た日に、あんたの父さんも、何か出しかけてた」
うまい言い方だ、と思った。出しかけて、止めた。止めたところに、溜まる。溜まったものは、いつか、滲む。
墨の匂いが、まだ、俺の指に残っていた。
(次回)
第三十四話「指の風」
指から出た風を、エルナは稽古で試したがる。足ではない場所から出る風を、グレンは黙って見ている。アレンは「溜まる場所は動かせるのか」を自分の魔素で確かめようとして、木剣の中で、初めて流れを「分ける」感覚に触れる。




