通る日、通らない日
翌朝、通らなかった。
小屋の前で木剣を握って、腕に寄せて、手のひらまで持ってきて、伸ばした。昨日と同じ順でやった。昨日と同じ順でやって、手のひらの先で、散った。
「……出ていきます」
「そうか」
爺さんは、それだけ言った。切り株から下りてもこなかった。
二度目。散った。三度目。散った。
雪の三日間を思った。できたものは消える。消えて、戻る。探すのをやめればいい。
やめた。
やめて、足運びだけをやった。膝と腰と肩を並べて、音のしない一歩を、小屋の前で三十回。二歩続いたのは、六回。
木剣は、ただの木の棒だった。重かった。
重い、と感じること自体が、昨日までなかった。昨日まで、木剣は木剣の重さで、それが当たり前だった。一度軽さを知った手は、同じ重さを、重いと呼ぶようになる。
(昨日の軽さは、どこに置いてきた)
帰り道、エルナが聞いた。
「今日は変じゃなかった」
「通らなかった」
「ふうん。……昨日と、何が違うの」
「分からん。分かってたら通してる」
あいつは、しばらく黙って歩いて、それから木剣を振り回しながら言った。
「川のときさ。あんた、毎朝同じ石を同じ場所で見るって言ったじゃん。動かしたら比べられないって」
足が、止まった。
同じ石を、同じ場所で。
昨日の俺と、今日の俺は、同じ場所に立っていたか。
その晩、土間で木剣を握った。
握って、見た。魔素ではなく、手を。
昨日、通ったとき、俺はどう握っていたか。思い出そうとして、思い出せなかった。通ったときは、通ったことしか見ていなかった。石を見ずに、水だけ見ていたのと同じだ。
なら、今から見る。
握る。手のひらを、柄に当てる。親指と、人差し指と、小指。順に、力を抜く。入れる。もう一度。
十回目くらいで、気づいた。
手のひらの、真ん中。
そこが、柄に触れていない。
指は柄を巻いている。指の根元も触っている。なのに、手のひらの中心は、ほんのわずか、柄から浮いていた。紙一枚ぶんの、隙間。前世で、重いものを持つときに癖になっていた握り方だった。指で持って、手のひらは逃がす。腱鞘炎を避けるために覚えた持ち方だ。
(……持ち越してるのか、そんなものまで)
前世の体はもうない。それでも、握るときの癖だけが、三十五年ぶんの手から、八歳の手へ、そのまま来ている。
隙間に、魔素を流してみた。
流れが、そこで止まった。手のひらの先に、道がない。空気へ散る。昨日は、たぶん、三度目で気が逸れたとき、知らずに手のひらを柄に押しつけていた。だから通った。
試しに、手のひらを柄に当てた。真ん中を、押しつける。
通った。
柄の中を、木目に沿って、先端まで。木剣が、軽くなった。腕の先に、もう一尺の俺が戻った。
一息で、通った。
手を、少しゆるめた。隙間が開いた。切れた。重くなった。
押しつけた。通った。
(スイッチだ)
土間の隅で、俺は何度も、木剣を軽くしたり重くしたりしていた。母さんが奥から顔を出して、しばらく見ていた。
「何を、してるの」
「握り方を、直してます」
「直るの」
「分かりません。でも、どこが曲がってるかは、分かりました」
母さんは、薬草の匂いのする手で、俺の手のひらを一度だけ撫でた。
「薬も、同じよ。効かない日があって、効かない理由は、だいたい煎じた手のほうにある」
柔らかく言って、また奥へ引っ込んだ。
通る日と、通らない日の差は、魔素の差ではなかった。手の差だった。見えるものばかり見ていて、握っている自分の手を、一度も見ていなかった。
翌朝、小屋の前で、俺は何も言わずに木剣を握った。
手のひらの真ん中を、柄に当てた。流した。
通った。一息だった。
爺さんが、切り株の上で、少し顎を動かした。
「何を変えた」
「手です。手のひらの真ん中が、柄から浮いてました」
「なぜ浮く」
「前の、癖です。……前から、そう持ってました」
前世の、とは言えなかった。言わなくても、爺さんは何か分かったような顔をした。分からなかったのかもしれない。爺さんの顔は、どちらにも読める。
「癖は、見えん」
爺さんは言った。
「魔素は、お前には見える。足は、見れば分かる。だが癖は、自分の目に一番近いところにあって、一番見えん。見つけたな」
「エルナに、言われました。同じ石を同じ場所で見ろって、俺が言ったのを」
爺さんは、向こうで走り込んでいるエルナを見た。それから、鼻から短く息を吐いた。
「あいつは、見えん者だ。見えん者の言葉で、お前は自分の手を見た」
それは、川と同じだった。見えない人の言葉に置き換えたら、見えているものが、はじめて使えるものになった。順番が逆になっただけだ。
「切れたら、つなぎ直せ。一息で」
爺さんは木剣で、俺の木剣の先を叩いた。
切れた。
手のひらを、押しつけた。通った。
一息だった。
「……二息、と言ったはずだがな」
爺さんは、それ以上褒めなかった。褒めない代わりに、木剣をもう一度叩いた。切れた。つないだ。叩いた。切れた。つないだ。
十回目で、俺の手のひらは汗で滑って、十一回目は三息かかった。
「汗でも切れる。雨でも切れる。鉄なら、もっと切れる」
「はい」
「それでいい。切れんようになるのが先じゃない。切れたと分かるのが先だ。お前はもう、分かる」
村に下りると、幌馬車が見えた。
「行商人だって!」
エルナが言うより先に、俺は走っていた。足が、勝手に動いた。音は、した。
ロドだった。
去年より、少し日焼けが濃い。敷物の上に、同じように、ガラスの小瓶と染料と紙が並んでいる。紙は、去年より一束多かった。
「おう。坊主。でかくなったな」
「八歳になりました」
「生意気な口は変わらんな」
ロドは笑って、それから目を、俺の後ろへやった。
ヤーゴさまが、曲がった腰で、ゆっくり歩いてきていた。腕に、薄い板の束を抱えている。村の帳だ。
ヤーゴさまは、ロドの敷物の前に座って、板の束から一枚を抜いた。
俺の十日が、整った字で、麦の隣に並んでいる。エルナの丸も、書き役の手で、丸く写されていた。
「ロド。これを、ギルドに上げられるか」
ロドの目が、軽くなくなった。
板を手に取って、長いこと読んだ。読み終えて、俺を見た。
「坊主。これ、お前か」
「見たのは、俺です。書いたのは書き役です。丸は、エルナです」
「……山の上の窪みに、札を立てたと」
「はい」
ロドは板を膝に置いて、少しの間、何も言わなかった。それから、敷物の端から紙の束を一つ取って、ヤーゴさまの前に置いた。
「板じゃ、ギルドは受け取らん。紙に写せ。写したら、俺が持っていく。王都までは行かんが、街のギルドまでは行く」
「ギルドが、川の話を読むんですか」
俺が聞くと、ロドは板を指で軽く叩いた。
「読む。水が濁った、魚が浮いた、そういう話は、どこの村からも上がってくる。ただな、だいたいは濁ったあとに来る。これは、濁る前から、毎朝書いてある。……そういうのは、あんまり来ない」
板の線を、ロドの指が、上から下へ、階段のかたちにたどった。
「上の連中は、こういう形の話を欲しがる。何が、じゃなく、いつから、だ」
紙。
去年、この村じゃ売れん、と言われた紙だった。
「代は」
ヤーゴさまが聞いた。ロドは、首を振った。
「要らん。……いや、要る。坊主」
ロドが、俺を見た。
「お前が写せ。書き役じゃなく。字が下手でも、見た奴の字で来たほうが、上は読む」
俺は、紙を見た。
前世で、毎日浴びるほど囲まれていたものだ。それが今、俺の前に一束、置かれている。俺の字を乗せるために。
「……俺の字、読めませんよ」
「読めんでもない、と聞いたぞ」
ヤーゴさまが、白湯を飲むような顔で言った。母さんの肩が揺れたのと、同じ揺れ方を、俺はその場にいなかった誰かの代わりに、心の中でやった。
ロドは、荷の中から、小さな瓶を出した。黒い液体が入っている。
「墨だ。炭じゃ、紙は死ぬ。これで書け。一晩で乾く」
墨。紙。
板に炭で引いた線が、村長の膝に移って、書き役の手で写されて、今、墨と紙で、街へ出ていこうとしていた。
(……三十年後より、先に届く)
三十年後の誰かのために書いた。それが、今年のうちに、街のギルドの誰かに届く。届いた先で、どう育つかは分からない。分からないまま、渡す。
板を押し出したときの、腕の軽さを思い出した。あれより、少し軽かった。二度目だからだ。
「写します」
俺が言うと、エルナが横から紙を覗き込んだ。
「あたしの丸も」
「丸も。……お前が描け」
「えっ」
「お前が見た印だ。俺が描いたら、俺の丸になる」
あいつは目を丸くして、それから、むずむずした顔で紙を見た。紙に何かを描くのは、たぶん、生まれて初めてだ。
ロドが、幌馬車の陰で、父さんと目を合わせていた。去年と同じ、言葉の少ない間合いだった。父さんが、ロドの持っている板を、顎で指した。ロドが、一度だけ、深く頷いた。
二人が何を省略しているのか、俺にはまだ分からない。
分からないものは、点だ。
点は、いつか線になる。板がそうだったように。
(次回)
第三十三話「墨の匂い」
初めての紙と墨に、アレンの字は何度も滲む。エルナは丸を描くために筆を握り、思いがけず風を起こす。写し終えた一枚を受け取ったロドは、幌馬車の陰で、ガイに「あの印の話」を切り出す。




