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水草の緑

 水草が、緑になった。


 茶色が抜けきって、朝の光の中で、川底が揺れている。石は四つとも、水の上に乾いた頭を出していた。そこから下の濡れた線が、昨日より指一本ぶん低い。


 俺は、水の中を見た。


 糸は、なかった。


 目を凝らして、川面の下を上流から下流まで追った。底のほうに、薄い影のようなものが、あるようなないような。あるかないか分からないものを、ある、とは書けない。


「見えない」


「ほんとに?」


 エルナが、板を抱えたまま顔を寄せてきた。


「ほんとに。……たぶん」


「たぶんって、何」


「見えないのと、無いのは、違う。見えないとしか言えない」


 あいつは少し考えて、板に炭で線を引いた。線というより、点だった。点の横に、丸。


「じゃ、点」


 それでいい、と俺は思った。見えないものは点だ。無い、と書くのは、三十年後の誰かに嘘をつくことになる。


 土手の上で、人の声がした。


 村の男たちが、鍬を担いで並んでいる。ドルグもいた。川の上手にある堰を、今日、開ける。田に水を入れる日だった。


「坊主。いいんだな」


 ドルグが、土手の上から言った。俺に聞いていた。村長でも、父さんでもなく、俺に。


 喉が、少し鳴った。


「はい。水草が緑です。石は四日続けて下がってます。糸は、今日、見えません」


 見たことだけを、言った。思ったことは、言わなかった。


 ドルグは頷いて、鍬を振り上げた。


 土が崩れて、水が田へ向かって走り出した。茶色い筋が、畦の間をゆっくり伸びていく。男たちが、それを追って歩き出す。誰も、歓声を上げなかった。上げないかわりに、歩く足が、いつもより少し速かった。


 エルナが、板の点の下に、田んぼの絵を描いた。四角が三つ。水が入った印に、波の線。


(本番環境、稼働)


 俺は、しばらく土手に座っていた。川が澄んだのは、俺のおかげではない。雨が止んで、窪みが溜めて、日にちが経っただけだ。俺は、毎朝そこに立って、見て、言っただけだった。


 それでも、ドルグは俺に聞いた。


 その重さを、田に走る水を見ながら、少しだけ持っていた。


 昼、戸口に村長が立っていた。


 ヤーゴさまは、腰が曲がっている。曲がった腰で、土間の框に手をついて、ゆっくり座った。母さんが白湯を出した。


「板を、見せてもらえるか」


 俺は、十日あまりの板を全部、並べた。エルナのも含めて、八枚ある。


 ヤーゴさまは、一枚ずつ、ずいぶん長く見た。字の読めないところは、俺が読んだ。エルナの丸の意味も、説明した。


「……写しが、欲しい」


 白湯を一口飲んで、村長は言った。


「村の帳に、残したい。お前の板は、お前のものだ。だが、川は村のものだ」


 俺は、板を見た。


 炭で引いた線。消えかけた字。エルナの丸。石の絵。


「俺が、写しますか」


「いや。書き役に写させる。お前の字は、……まあ、読めんでもない」


 母さんが、竈の方を向いて、肩を小さく揺らした。


 ヤーゴさまは、懐から薄い板を出した。村の帳、というのは、こういう板の束らしい。表には、去年の麦の量が、整った字で彫ってあった。


「ここに、入る」


 俺の十日が、麦の隣に並ぶ。


 それは、嬉しいことのはずだった。三十年後に読む人のために書いた。その三十年後へ、今、届けようとしてくれている。


 なのに、手が、板を離さなかった。


(……俺のじゃなくなる)


 写されたら、俺の板は、ただの下書きになる。写した先の字は、俺の字じゃない。エルナの丸も、たぶん、書き役の丸になる。線が短くなっていった日の、あの階段の形も、書き役の目で引き直される。


 前世で、自分の書いたものを人に引き継いだときの感じに、似ていた。渡した瞬間から、それは自分の手の届かないところで、自分の知らない形に育つ。育つのは、いいことだ。いいことだと、分かっている。


「アレン」


 ヤーゴさまが、俺の手を見ていた。


「お前は、川を見た。村は、川を見られん。見られん者が、見た者の話を、持っていていいか」


 爺さんと、同じことを言っていた。言い方は違った。爺さんは言い切った。ヤーゴさまは、聞いていた。


 俺は、息を吸って、板を押し出した。


「丸も、写してください」


「丸も」


「エルナが見た印です。あいつの丸がないと、五日目は、空いた行になります」


 ヤーゴさまは、板の丸を、曲がった指で一つなぞった。


「分かった。丸も、写す」


 それから、ヤーゴさまは、少しだけ声を落とした。


「三十年前の帳には、何も残っとらん。閉めた、とだけ書いてある。なぜも、いつも、誰も、ない。わしは、あれを読むたびに、そこで止まる」


 父さんが、札の前で止まったのと、同じ場所だった。この村の大人は、みんな同じ場所で止まっている。


「今度は、止まらんで済む」


 板は、村長の膝の上に移った。


 重さが、手から抜けた。抜けたあとに、少しだけ、冷たい風が通った。寂しい、というのとは違う。持っていたものを置いたときの、腕の軽さに似ていた。


 山の稽古は、足に戻っていた。


 音のしない一歩。錆びたままの膝を、毎朝一つずつ、前に出す。三日目に、一歩が戻った。四日目に、二歩が戻らなかった。五日目に、戻った。


 階段だ。板の線と同じで、戻る日は急に戻る。


「アレン」


 切り株の上から、爺さんが言った。


「木剣に、魔素を通してみろ」


 俺は、手の中の木剣を見た。


「……木に、ですか」


「木だ。鉄に通すより、やりやすい。木は、魔素を留める」


 言われて、思い出した。魔素は、木の近くに濃い。二歳の頃から知っていることだ。木が留めるから、木の近くは濃いのか。それとも、濃いから留まるのか。順番は、まだ分からない。


 分からないまま、やってみた。


 循環している魔素を、腕に寄せる。これは、できる。手のひらまで持ってくる。これも、できる。三歳の夏、エルナの額にやったのと同じだ。


 手のひらから先が、なかった。


 木剣の柄は、手の外だった。外へ出す、というのは、放出だ。放出した魔素は、空気へ散る。散らずに、柄の中へ入っていく道が、見えない。


「……出ていきます。木に、入りません」


「出すな」


 爺さんは、短く言った。


「流れを、止めるな。出すな。伸ばせ」


 伸ばす。


 手のひらで止まっている流れの先を、止めずに、そのまま先へ。腕が、もう一尺あるつもりで。


 試した。散った。


 もう一度。散った。


 三度目、エルナが向こうで走り込みをしているのが目の端に入って、気が逸れた。逸れた瞬間、手のひらから先が、すっと伸びた。


 木剣の柄の中を、薄いものが、通った。


 柄から、刃の方へ。木目に沿って、ゆっくり先端まで。木が、留めてくれている。散らない。


 そして、木剣が、軽くなった。


 重さが変わったわけではない。手に乗っている重さは、同じだ。同じなのに、持っている、という感じが消えていた。腕の先に、腕がもう少しある。その先まで、俺だった。


(……境目が、消えた)


 握っているものと、握っている手の、境目。それが、魔素の流れで埋まっていた。


「上げろ」


 上げた。


 木剣が、腕と一緒に上がった。腕を上げたら、ついてきた。それだけのことなのに、今まで一度も、そう感じたことがなかった。


「下ろせ」


 下ろした。音が、しなかった。木剣の先が地面に触れる手前で、腕と同じ速さで止まった。


 爺さんが、切り株から下りてきた。


「体内の魔素を、うまく通せる剣士は、疲れん。速い。前に言ったな」


「はい」


「剣まで通せる者は、さらに少ない。木剣で通った。鉄は、もっと重い。今は、それでいい」


 爺さんは、俺の木剣の先を、自分の木剣で軽く叩いた。


 その瞬間、流れが切れた。


 木剣が、急に重くなった。元の重さに戻っただけなのに、落としそうになった。


「……切れました」


「切れる。触られれば切れる。打たれれば切れる。切れたまま打ち合うのが、今までのお前だ」


 爺さんは、木剣を引いた。


「つなぎ直せ。一息で」


 つなぎ直した。三息かかった。


「遅い」


「はい」


「明日は、二息だ」


 向こうで、エルナが足を止めて、こっちを見ていた。何が起きたかは、あいつの目には見えない。見えないまま、俺の木剣の先を、じっと見ていた。


「……今、あんたの剣、変だった」


「変って、何が」


「分かんない。でも、変だった」


 あいつは、感じるのだ。見えなくても。それを、俺はもう知っている。


 それだけ言って、爺さんは切り株に戻った。


 俺は、木剣を握ったまま立っていた。腕の先に、もう一尺の俺がいる。この感じを、明日、朝起きたときに覚えているかどうか。雪の三日間を、少し思い出した。できたものは、消える。消えて、戻る。


 戻るまで、探すのをやめればいい。それは、もう知っている。


 帰り道、エルナが木剣を振り回しながら聞いた。


「通ったの?」


「通った。切れたけど」


「あたしも通る?」


「分からん。お前の魔素は、風だから、たぶん、通る前に出ていく」


「出ていくって、何それ」


 あいつは、口を尖らせて、自分の木剣を見た。それから、ふん、と鼻を鳴らした。


「じゃ、あたしは足で行く。あんたは剣で来る。それでいいじゃん」


 分担だ、とまた思った。思って、少し笑った。


 村の田に、夕方の光が入っていた。水を張った四角が、空の色を映している。十日前、そこは乾いていた。板は、もう俺の手元にない。


 手元にないのに、川は、ちゃんと流れていた。


 それでいい、と思った。今は。


(次回)

第三十二話「通る日、通らない日」


 木剣に通した魔素は、翌朝には通らない。通る日と通らない日の差を探すうちに、アレンは柄を握る手の中に、小さな癖を見つける。村には行商人ロドが再び来て、川の話が、初めて村の外へ出ていく。

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