↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/43

戻る川

 雨が上がって三日目の朝、石が四つとも顔を出した。


 土手から見下ろすと、川はまだ少し高い。それでも、水の上に石の頭が並んでいるのが分かった。並んでいる、というだけで、胸のどこかがほどけた。


「戻ってる」


 隣でエルナが言った。板を胸に抱えて、もう足は川原へ向いている。


「待て。縁からだ」


「分かってるってば」


 分かっている顔で、あいつは土手の斜面を三歩下りた。三歩は縁のうちらしい。


 俺は、水を見た。


 水ではなく、水の中のものを。


 あの厚い層は、まだある。ただ、川面のすぐ下をべったり覆っていた五日前とは違って、今は流れの底のほうに、薄く沈んでいる。下流へ伸びる糸は、目を凝らさないと見えない太さになっていた。


「細い」


「見えるの?」


「見える。でも、細い。糸っていうより、髪の毛だ」


 エルナは板を裏返し、炭で今日の行に線を引いた。長さは、昨日より短い。あいつなりの物差しだ。線の横に、丸を一つ。あたしが見た印、というやつ。


「石、置き直す?」


「置き直さない。同じ石を、同じ場所で見る。動かしたら、昨日と比べられない」


「ふうん」


 あいつは板に、また何か書いた。覗くと、石の絵だった。四つ。全部に頭が出ている。


(計器、復旧)


 前世の職場なら、ここで誰かが小さく拍手をした。ここでは誰もしない。しないかわりに、エルナが石の絵の下に、にっこり笑った顔を描いた。


 水草の色が変わりはじめたのは、五日目だった。


 茶色が抜けて、緑に近づいている。近づいているだけで、まだ緑ではない。日に日に少しずつ、と言いたいところだが、実際は、変わらない日が三日続いて、四日目に急に変わった。


(変化は、均等には来ない)


 これは板を見ていて分かったことだ。エルナの線は、同じ長さの日が並んで、ある日ぽつんと短くなる。階段のように減っていく。


 父さんは毎朝、山から下りてくると、俺の板の横に自分の印をつけた。窪みの水の高さだ。


 父さんの印は、ゆっくり上がっていた。俺の糸は、ゆっくり細くなっていた。


 二つを並べて見ると、一本の話になった。上で溜めたぶん、下に来ない。当たり前のことだ。当たり前のことが、板の上で当たり前になるまでに、十日かかった。


「アレン」


 ある朝、父さんが板を見ながら言った。


「爺さんが、明日から来いと言っとる」


「……山ですか」


「稽古だ」


 言われて、初めて気づいた。


 木剣を握っていない。石を置きはじめた日から、一度も。


 手のひらを見た。木剣のまめが、少し柔らかくなっていた。


 その晩、俺は土間の隅から木剣を取り出した。


 埃は積もっていなかった。母さんが拭いていたのだと思う。柄を握ると、手の形が少しだけ変わっていた。石を置く手と、木剣を握る手は、同じ手なのに違う。


「明日から?」


 母さんが、竈の火を落としながら聞いた。


「はい」


「川は」


「朝に見てから行きます。エルナが、書いてくれます」


 母さんは頷いて、それから、俺の手を見た。山から帰った晩と同じ見方だった。


「まめ、戻るまで痛いわよ」


「知ってます」


「知ってるなら、いいです」


 柔らかい声で言って、母さんは奥へ入った。


 俺は、しばらく木剣を握ったまま座っていた。


 石を置いていた十日あまり、俺は一度も剣のことを考えなかった。考えなかったことに、今になって驚いている。あれだけ毎朝、体に叩き込んでいたものが、こんなに簡単に脇へ寄る。


(人は、一度に一つしか見られないのか)


 それとも、俺が見ていなかっただけか。答えは、明日、体が教えてくれる。


 小屋の前の平らな場所は、雨のあとで草が伸びていた。


 爺さんは、いつもの切り株に座っていた。エルナは俺の隣で、もう構えている。あいつは走り込みを一日も休んでいなかったらしい。足が、うずうずしていた。


「立て」


 立った。


「呼吸」


 吸って、吐いた。


 それだけで、分かった。


 体が、遅い。


 立ち方は覚えている。呼吸も覚えている。覚えているのに、覚えているとおりに体が並ばない。膝と、腰と、肩が、別々の場所にいる。


「動け」


 一歩、出した。


 音がした。


 音のしない一歩が出るようになって、二歩、続くようになった。それが、一歩目から音を立てた。


(……全部、消えたわけじゃない。でも、錆びてる)


 前世で、しばらく触っていなかった古い環境を立ち上げたときの感じだ。起動はする。だが、何もかもが遅い。体で覚えていたはずの手順が、一つ一つ、思い出しながらになる。


「止まれ」


 爺さんが言った。


「アレン。今の一歩、何が遅れた」


「……膝です。膝が、足より後に来ました」


「なぜ分かる」


「見えるからです。魔素が、膝のところで一度、詰まりました」


 爺さんは、しばらく黙っていた。


 黙って、それから、俺が予想していなかったことを言った。


「川と、同じか」


 俺は、爺さんを見た。


「川で、お前は水の中のものを見た。細くなったの、太くなったのと、毎朝言った。今、自分の膝で同じことを言った。同じ目か、違う目か」


 考えた。


 考える必要はなかった。


「……同じ目です」


「なら、それが剣だ」


 爺さんは、切り株から立ち上がった。


「見える者の仕事は、見て、言うことだ。お前は川でそれをやった。札を立てた。あれは、見えん者のための仕事だ」


 俺は頷いた。


「剣は、もう一つ先だ」


 爺さんは、木剣を俺に向けた。切っ先が、俺の胸の高さで止まる。


「見えて、動く。それだけだ。言う暇はない。札を立てる暇もない。見えたら、その一息のうちに、体を持っていく」


 一本の線で、川と剣が、つながった。


 見る。言う。それが川だった。


 見る。動く。それが剣だ。


 真ん中の「言う」が、抜けるだけだ。抜けるだけで、こんなに遠い。


「エルナ」


「はい!」


「打て。三本」


 エルナは、速かった。


 石を置きはじめる前より、速かった。走り込みを休まなかった足が、正直に前に来る。


 一本目、俺は木剣を上げる前に、脇腹を打たれた。


 痛みより先に、悔しさより先に、思ったのは一つだった。


(見えてなかった)


 見ようとしていなかった。膝と腰を並べることで頭がいっぱいで、目が、自分の中にしか向いていなかった。


 二本目。


 今度は、エルナを見た。


 自分ではなく、あいつの中を。


 構えた足の裏に、魔素が集まっていた。川の底に沈んだ層と同じ、動かないもの。それが、あいつの右足の踵に溜まっている。


 溜まったものが、一瞬、膨らんだ。


 来る。


 分かった瞬間、体が半歩、横に動いた。


 木剣が、耳の横をかすめた。


 当たらなかった。避けた、というより、俺の体がそこにいなかった。


「──っ」


 エルナが、目を丸くしていた。


 俺も、丸くしていたと思う。


「今の、何」


「……分からん。足に溜まったのが、膨らんだから」


「膨らんだ?」


「風が、出る前に。溜まって、膨らんで、それから出てた」


 エルナは自分の踵を見た。見ても、何もない。あいつの目には、何もない。


「あんた、あたしの足の中、見えてんの」


「見えてた。今は」


「……なんか、やだ」


 そう言いながら、あいつの口の端は、上がっていた。


 三本目。


 俺は、見た。


 踵の溜まりが膨らんで、来る、と分かって、体を動かした。


 間に合わなかった。


 肩を打たれた。


 見えたのと、動くのとの間に、一つ分の遅れがあった。膝だ。錆びた膝が、見えた分だけ、置いていかれた。


 それでも、俺は転ばなかった。


 打たれたまま、立っていた。


「そこまで」


 爺さんが言った。


「二本目、何が起きた」


「見えて、動きました」


「三本目」


「見えました。動けませんでした」


「なぜだ」


「……体が、目に追いつきませんでした」


 爺さんは、鼻から短く息を吐いた。それが、笑ったのだと分かるようになったのは、いつからだったか。


「川の水は、逃げん。人は逃げる。目だけ育てた者は、川の番はできても、剣士にはなれん」


 木剣を、俺の膝に軽く当てた。


「明日から、足だ。目はもう、要らんほどある」


 帰り道、エルナが何度も自分の踵を見ていた。


「ねえ。あたし、風出すとき、足に溜めてるの?」


「溜めてる。たぶん、自分では知らずに」


「知らずに、って。あたしの足なのに」


「俺だって、自分の膝が詰まってるの、今日まで知らなかった」


 あいつは、しばらく黙って歩いた。


 それから、急に立ち止まった。


「じゃあ、あんたが見て、あたしに言えばいいじゃん。あたしはあんたより速いんだから、言われたら動ける」


 俺は、足を止めた。


(見る、言う、動く。……分担か)


 川で、父さんとドルグと俺で、そうしていた。見る者と、掘る者と、石を置く者。一人でやらなくていい。


 だが、爺さんの言葉も、まだ耳に残っていた。剣は、言う暇がない。


「……稽古のときは、言わない。自分で動かないと、俺の足が育たない」


「じゃあ、いつ言うの」


「川で。それと、たぶん、村の外で」


 エルナは、少し首を傾げて、それから、ふん、と頷いた。


「じゃ、それまでに、あんたの足が追いつくのを待っててあげる」


 偉そうに言って、あいつは走り出した。


 俺は走らなかった。


 走らずに、一歩ずつ、膝と腰と肩を並べて歩いた。音は、まだ少しした。


 川に戻った石は、明日もあそこにある。


 俺の足も、明日はもう少しだけ、目に近づく。


(次回)

第三十一話「水草の緑」


 川が澄み、田に水が入る。村長ヤーゴが板の写しを求め、記録は初めてアレンの手を離れる。稽古は足運びに戻り、爺さんは「木剣に魔素を通してみろ」と言う。通した先で、木剣がわずかに軽くなる。

 ここまでお付き合いくださって、ありがとうございます。玲鈴です。

 雨が上がって、ようやく日常が戻ってきた回でした。川の目と剣の目が一本につながる場面は、この章を書きはじめた頃から置きたかった場所です。「見えるけど動けない」もどかしさ、皆さんにも覚えがあるでしょうか。

 もし続きが気になっていただけたなら、評価をひとつ残していただけると嬉しいです。次回は、記録がアレンの手を離れていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。