戻る川
雨が上がって三日目の朝、石が四つとも顔を出した。
土手から見下ろすと、川はまだ少し高い。それでも、水の上に石の頭が並んでいるのが分かった。並んでいる、というだけで、胸のどこかがほどけた。
「戻ってる」
隣でエルナが言った。板を胸に抱えて、もう足は川原へ向いている。
「待て。縁からだ」
「分かってるってば」
分かっている顔で、あいつは土手の斜面を三歩下りた。三歩は縁のうちらしい。
俺は、水を見た。
水ではなく、水の中のものを。
あの厚い層は、まだある。ただ、川面のすぐ下をべったり覆っていた五日前とは違って、今は流れの底のほうに、薄く沈んでいる。下流へ伸びる糸は、目を凝らさないと見えない太さになっていた。
「細い」
「見えるの?」
「見える。でも、細い。糸っていうより、髪の毛だ」
エルナは板を裏返し、炭で今日の行に線を引いた。長さは、昨日より短い。あいつなりの物差しだ。線の横に、丸を一つ。あたしが見た印、というやつ。
「石、置き直す?」
「置き直さない。同じ石を、同じ場所で見る。動かしたら、昨日と比べられない」
「ふうん」
あいつは板に、また何か書いた。覗くと、石の絵だった。四つ。全部に頭が出ている。
(計器、復旧)
前世の職場なら、ここで誰かが小さく拍手をした。ここでは誰もしない。しないかわりに、エルナが石の絵の下に、にっこり笑った顔を描いた。
水草の色が変わりはじめたのは、五日目だった。
茶色が抜けて、緑に近づいている。近づいているだけで、まだ緑ではない。日に日に少しずつ、と言いたいところだが、実際は、変わらない日が三日続いて、四日目に急に変わった。
(変化は、均等には来ない)
これは板を見ていて分かったことだ。エルナの線は、同じ長さの日が並んで、ある日ぽつんと短くなる。階段のように減っていく。
父さんは毎朝、山から下りてくると、俺の板の横に自分の印をつけた。窪みの水の高さだ。
父さんの印は、ゆっくり上がっていた。俺の糸は、ゆっくり細くなっていた。
二つを並べて見ると、一本の話になった。上で溜めたぶん、下に来ない。当たり前のことだ。当たり前のことが、板の上で当たり前になるまでに、十日かかった。
「アレン」
ある朝、父さんが板を見ながら言った。
「爺さんが、明日から来いと言っとる」
「……山ですか」
「稽古だ」
言われて、初めて気づいた。
木剣を握っていない。石を置きはじめた日から、一度も。
手のひらを見た。木剣のまめが、少し柔らかくなっていた。
その晩、俺は土間の隅から木剣を取り出した。
埃は積もっていなかった。母さんが拭いていたのだと思う。柄を握ると、手の形が少しだけ変わっていた。石を置く手と、木剣を握る手は、同じ手なのに違う。
「明日から?」
母さんが、竈の火を落としながら聞いた。
「はい」
「川は」
「朝に見てから行きます。エルナが、書いてくれます」
母さんは頷いて、それから、俺の手を見た。山から帰った晩と同じ見方だった。
「まめ、戻るまで痛いわよ」
「知ってます」
「知ってるなら、いいです」
柔らかい声で言って、母さんは奥へ入った。
俺は、しばらく木剣を握ったまま座っていた。
石を置いていた十日あまり、俺は一度も剣のことを考えなかった。考えなかったことに、今になって驚いている。あれだけ毎朝、体に叩き込んでいたものが、こんなに簡単に脇へ寄る。
(人は、一度に一つしか見られないのか)
それとも、俺が見ていなかっただけか。答えは、明日、体が教えてくれる。
小屋の前の平らな場所は、雨のあとで草が伸びていた。
爺さんは、いつもの切り株に座っていた。エルナは俺の隣で、もう構えている。あいつは走り込みを一日も休んでいなかったらしい。足が、うずうずしていた。
「立て」
立った。
「呼吸」
吸って、吐いた。
それだけで、分かった。
体が、遅い。
立ち方は覚えている。呼吸も覚えている。覚えているのに、覚えているとおりに体が並ばない。膝と、腰と、肩が、別々の場所にいる。
「動け」
一歩、出した。
音がした。
音のしない一歩が出るようになって、二歩、続くようになった。それが、一歩目から音を立てた。
(……全部、消えたわけじゃない。でも、錆びてる)
前世で、しばらく触っていなかった古い環境を立ち上げたときの感じだ。起動はする。だが、何もかもが遅い。体で覚えていたはずの手順が、一つ一つ、思い出しながらになる。
「止まれ」
爺さんが言った。
「アレン。今の一歩、何が遅れた」
「……膝です。膝が、足より後に来ました」
「なぜ分かる」
「見えるからです。魔素が、膝のところで一度、詰まりました」
爺さんは、しばらく黙っていた。
黙って、それから、俺が予想していなかったことを言った。
「川と、同じか」
俺は、爺さんを見た。
「川で、お前は水の中のものを見た。細くなったの、太くなったのと、毎朝言った。今、自分の膝で同じことを言った。同じ目か、違う目か」
考えた。
考える必要はなかった。
「……同じ目です」
「なら、それが剣だ」
爺さんは、切り株から立ち上がった。
「見える者の仕事は、見て、言うことだ。お前は川でそれをやった。札を立てた。あれは、見えん者のための仕事だ」
俺は頷いた。
「剣は、もう一つ先だ」
爺さんは、木剣を俺に向けた。切っ先が、俺の胸の高さで止まる。
「見えて、動く。それだけだ。言う暇はない。札を立てる暇もない。見えたら、その一息のうちに、体を持っていく」
一本の線で、川と剣が、つながった。
見る。言う。それが川だった。
見る。動く。それが剣だ。
真ん中の「言う」が、抜けるだけだ。抜けるだけで、こんなに遠い。
「エルナ」
「はい!」
「打て。三本」
エルナは、速かった。
石を置きはじめる前より、速かった。走り込みを休まなかった足が、正直に前に来る。
一本目、俺は木剣を上げる前に、脇腹を打たれた。
痛みより先に、悔しさより先に、思ったのは一つだった。
(見えてなかった)
見ようとしていなかった。膝と腰を並べることで頭がいっぱいで、目が、自分の中にしか向いていなかった。
二本目。
今度は、エルナを見た。
自分ではなく、あいつの中を。
構えた足の裏に、魔素が集まっていた。川の底に沈んだ層と同じ、動かないもの。それが、あいつの右足の踵に溜まっている。
溜まったものが、一瞬、膨らんだ。
来る。
分かった瞬間、体が半歩、横に動いた。
木剣が、耳の横をかすめた。
当たらなかった。避けた、というより、俺の体がそこにいなかった。
「──っ」
エルナが、目を丸くしていた。
俺も、丸くしていたと思う。
「今の、何」
「……分からん。足に溜まったのが、膨らんだから」
「膨らんだ?」
「風が、出る前に。溜まって、膨らんで、それから出てた」
エルナは自分の踵を見た。見ても、何もない。あいつの目には、何もない。
「あんた、あたしの足の中、見えてんの」
「見えてた。今は」
「……なんか、やだ」
そう言いながら、あいつの口の端は、上がっていた。
三本目。
俺は、見た。
踵の溜まりが膨らんで、来る、と分かって、体を動かした。
間に合わなかった。
肩を打たれた。
見えたのと、動くのとの間に、一つ分の遅れがあった。膝だ。錆びた膝が、見えた分だけ、置いていかれた。
それでも、俺は転ばなかった。
打たれたまま、立っていた。
「そこまで」
爺さんが言った。
「二本目、何が起きた」
「見えて、動きました」
「三本目」
「見えました。動けませんでした」
「なぜだ」
「……体が、目に追いつきませんでした」
爺さんは、鼻から短く息を吐いた。それが、笑ったのだと分かるようになったのは、いつからだったか。
「川の水は、逃げん。人は逃げる。目だけ育てた者は、川の番はできても、剣士にはなれん」
木剣を、俺の膝に軽く当てた。
「明日から、足だ。目はもう、要らんほどある」
帰り道、エルナが何度も自分の踵を見ていた。
「ねえ。あたし、風出すとき、足に溜めてるの?」
「溜めてる。たぶん、自分では知らずに」
「知らずに、って。あたしの足なのに」
「俺だって、自分の膝が詰まってるの、今日まで知らなかった」
あいつは、しばらく黙って歩いた。
それから、急に立ち止まった。
「じゃあ、あんたが見て、あたしに言えばいいじゃん。あたしはあんたより速いんだから、言われたら動ける」
俺は、足を止めた。
(見る、言う、動く。……分担か)
川で、父さんとドルグと俺で、そうしていた。見る者と、掘る者と、石を置く者。一人でやらなくていい。
だが、爺さんの言葉も、まだ耳に残っていた。剣は、言う暇がない。
「……稽古のときは、言わない。自分で動かないと、俺の足が育たない」
「じゃあ、いつ言うの」
「川で。それと、たぶん、村の外で」
エルナは、少し首を傾げて、それから、ふん、と頷いた。
「じゃ、それまでに、あんたの足が追いつくのを待っててあげる」
偉そうに言って、あいつは走り出した。
俺は走らなかった。
走らずに、一歩ずつ、膝と腰と肩を並べて歩いた。音は、まだ少しした。
川に戻った石は、明日もあそこにある。
俺の足も、明日はもう少しだけ、目に近づく。
(次回)
第三十一話「水草の緑」
川が澄み、田に水が入る。村長ヤーゴが板の写しを求め、記録は初めてアレンの手を離れる。稽古は足運びに戻り、爺さんは「木剣に魔素を通してみろ」と言う。通した先で、木剣がわずかに軽くなる。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございます。玲鈴です。
雨が上がって、ようやく日常が戻ってきた回でした。川の目と剣の目が一本につながる場面は、この章を書きはじめた頃から置きたかった場所です。「見えるけど動けない」もどかしさ、皆さんにも覚えがあるでしょうか。
もし続きが気になっていただけたなら、評価をひとつ残していただけると嬉しいです。次回は、記録がアレンの手を離れていきます。




