札を立てる
村に戻ったのは、日が落ちきったあとだった。
戸を開けると、母さんが竈の前に立っていた。座っていなかった。俺たちが山を下りはじめた頃から、ずっと立っていたのだと思う。
母さんは何も聞かずに、俺の両手を取った。掌を上に向けさせて、指の間まで見た。それから桶の水で二度洗わせて、三度目は自分の手で洗った。
「水に、入ってません」
「見れば分かります」
そう言いながら、母さんは洗い終えた手を離さなかった。
土間の隅に、エルナがいた。膝を抱えて、板を胸に押しつけて座っている。俺が帰るまで帰らない、と言い張ったらしい。
「石、見つからなかった」
あいつは板を裏返して、俺に見せた。五日目の行に、炭で短い線が引いてある。線の横に、小さな丸が一つ。
「見つからなかった、って書いた。丸は、あたしが見た印」
字ではなかった。だが、記録だった。
「……いい」
俺がそう言うと、エルナは眉を寄せた。
「いいって、何が」
「見つからなかった、を書いたのがいい。書かなかったら、五日目は空いたままだった。空いてる行と、見つからなかった行は、違う」
あいつは板を見て、丸のところを指でなぞって、それから小さく「ふうん」と言った。
言ったあとで急に眠そうな顔になって、そのまま板を抱えたまま壁にもたれた。母さんがその肩に、手拭いを掛けた。
翌朝、雨は上がっていた。
川へ行く前に、俺は板の前に座った。昨日の窪みに何を溜めたか、書くと言った。爺さんに言った。言った以上、書かなければならない。
炭を持って、最初の一字で止まった。
この世界の文字は、まだ半分しか書けない。それは分かっていた。分かっていなかったのは、書ける半分の中に、あれを表す言葉が一つもないことだった。
水。これは書ける。溜まる。これも書ける。
その次がない。
ぬるくて、動かなくて、目には見えなくて、魚を浮かせるもの。
(型がない)
前世なら、名前のないものにはとりあえず仮の名を振った。仮の名で回しているうちに、いつの間にか本当の名前になる。だがここには、仮の名を振る相手がいない。俺しか見ていないものに、俺が名前をつけて、俺以外の誰が読む。
「毒、じゃだめなの」
後ろから、エルナが覗き込んでいた。
「毒は、蛇とか草の名前だろ。父さんが昨日そう言ったのは、他に言い方がなかったからだ」
「じゃあ、ぬるいの」
「ぬるいのを、三十年後の人が読んで分かるか」
エルナは口を尖らせた。
「分かんないけど。でも、あんたが分かる言葉より、みんなが分かる言葉の方がいいんじゃないの」
炭を持つ手が、止まった。
昨日、砂の山を作った。見えているものを、見えていない人の言葉に置き換えた。あのときは、砂と水があった。今は、炭と板しかない。
それでも、やることは同じだった。
名前を書くのではない。名前がないなら、起きることを書く。
俺は板に、線を引き直した。
あの窪みの水。手を入れるな。飲むな。魚が浮く。雨のたびに溢れる。溢れる先は、沢の下の石の列。
どれも、書ける言葉だった。見えない人でも、確かめられる言葉だった。
(仕様は書けなくても、症状は書ける)
書き終えて、俺は少しだけ息を吐いた。あれが何なのかは、この板には一行も書いていない。書いていないのに、三十年後の誰かがこれを読めば、近づかないでいられる。
それで足りる、と思った。今は。
父さんが板を見たのは、昼を過ぎてからだった。
山から下りてきて、泥のついた足を戸口で叩いて、それから板の前で足を止めた。しばらく読んでいた。読んでいる、というより、眺めていた。
「札にするのか」
「はい。窪みの横に立てます」
父さんは、板を指で軽く叩いた。
「三十年前の札を、俺は見たことがある」
俺は顔を上げた。
「……ヤーゴさまは、道も残ってないって」
「今はな。俺が十のとき、まだ立っとった」
父さんは、土間の框に腰を下ろした。珍しく、自分から話す気配だった。
「板は、こんなだった。もう少し厚い。字が、焼いてあった」
「焼いて」
「彫ってから、焼く。炭で書いたのは、一冬で消える」
俺は自分の板を見た。炭の線は、指でなぞれば、それだけで薄くなる。
「なんて書いてありましたか」
「近づくな」
「……それだけ、ですか」
「それと、印が一つ。剣と、翼の線だ」
昨日、雨の中で見た鞘の金具が、頭に浮かんだ。
父さんは、そこで少し黙った。
「なぜ、が書いてなかった」
声の高さは変わらなかった。変わらないまま、言葉が一つだけ、板の間に落ちた。
「十の俺は、その札の前に立って、なぜ近づいちゃいかんのか、しばらく考えとった。分からんかった。分からんもんを、分からんまま置いて帰った」
父さんは、自分の右頬を、指の背で一度こすった。古い傷の上だった。
「村を出たのは、その少しあとだ」
それきり、父さんは続きを言わなかった。
俺も、聞かなかった。
聞かない代わりに、覚えておくことにした。父さんが村を出た理由の、たぶん端のほうに、あの札がある。端だけだ。真ん中は、まだ見えない。
(また、半分だ)
この村の大人は、みんな半分ずつしか話さない。半分ずつ集めていけば、いつか一枚になる。そう思えるようになったのは、たぶん、記録というものを覚えてからだった。
父さんは、納屋から厚い板を一枚持ってきた。
「彫れ」
小刀を渡された。木剣の手入れに使っている、いつものやつだ。
炭で下書きをして、その上を刃でなぞる。字が下手なのは、彫ると余計に分かった。一本の線が、まっすぐ引けない。三度目でようやく、読める形になった。
「なぜ、を書くか」
父さんが、隣で見ていた。
俺は考えた。なぜ近づいてはいけないのか。俺には見えている。だが見えているものを、この板には書けない。書けないなら、書けることだけ書く。
「なぜ、は書けません。……でも、いつ、なら書けます」
俺は板の端に、日付を彫った。この世界の暦で、今日の日にちだ。それから、その下に、もう一行。
八歳、アレン・ミラーが見た。
父さんが、それを読んで、ふっと鼻から息を漏らした。笑ったのだと、少ししてから気づいた。
「名前まで彫るか」
「三十年後に、誰が書いたか分かった方がいいです。聞きに来られます」
「三十年後にお前がおるか」
「いなくても、俺の子供がいます。……たぶん」
言ってから、自分でも顔が熱くなった。八歳の口から出る話ではなかった。
父さんは何も言わずに、彫り終えた板を膝に乗せた。それから、右手を板の上にかざした。
火が、出た。
大きくはない。指先ほどの、小さな、揺れない火だ。去年、竈の前で見せてもらったのと同じ火だった。父さんが十年磨いた、弱い火。
その火が、彫った溝を、ゆっくりなぞっていく。
木が焦げる匂いがした。溝の底が、黒く染まっていく。線がぶれない。速くも遅くもならない。一本の字を焼き終えるまで、火の大きさが一度も変わらなかった。
俺は、息を止めて見ていた。
これは、強い火ではできない。強い火なら、板ごと焼ける。弱い火を、弱いまま保ち続けられる人にしかできない仕事だった。
(十年って、こういうことに使えるのか)
父さんは、最後の一字を焼き終えて、火を消した。板を裏返して、ひび割れがないのを確かめてから、俺に渡した。
「一冬じゃ、消えん」
板は、まだ少し温かかった。
俺は、焼かれた自分の字を指でなぞった。炭のときのように薄くならない。溝の底が硬くなっていて、爪を立てても崩れなかった。
「父さん。これ、誰に教わったんですか」
「誰にも」
父さんは小刀を拭いて、鞘に戻した。
「火が弱いと、こういう仕事が回ってくる。冒険者のときも、宿の札はだいたい俺が焼いとった」
言い方は、いつもと同じだった。いつもと同じ言い方で、この人は自分の十年を、そういう仕事、と呼んだ。
俺は、その言い方を覚えておくことにした。強い火の人には回ってこない仕事を、この人はたぶん、少しだけ誇りにしている。
夕方、俺は窪みの横に、その札を立てた。
父さんとドルグが穴を掘って、俺が板を差し込んだ。土を固めるのは、俺の足でやった。爺さんは、少し離れたところで、腕を組んで見ていた。
溜まった水は、朝より少しだけ増えていた。厚い層が、その上でじっとしている。沢へ伸びる糸は、昨日より細い。
立て終えて、俺は札の前に立った。
十歳の父さんが、三十年前の札の前で立ったように。
この札にも、なぜは書いていない。
書いていないが、いつと、誰が、は書いてある。板の裏には、溜めたものの様子と、雨で溢れる先が、絵と字で残してある。
三十年後の誰かが、ここに立つ。立って、なぜだろうと考える。考えて、板の裏を見る。
それで、十歳の父さんより、ほんの少しだけ先まで行ける。
それだけでいい、と思った。
「アレン」
爺さんが、腕を組んだまま言った。
「札を立てて、終わりか」
「終わりじゃないです」
俺は、川の方を見た。山の向こうで、村の田が水を待っている。
「明日から、また川に石を置きます。減っていくのを、書きます」
爺さんは、それ以上何も言わなかった。
言わずに、初めて、札の前まで歩いてきた。板の裏の絵を、しばらく見ていた。それから、指で、俺の名前のところを、一度だけなぞった。
(次回)
第三十話「戻る川」
雨が上がり、石を置く朝が戻ってくる。沢へ伸びていた糸は日ごとに細くなり、水草の色が少しずつ変わる。しばらく止まっていた木剣の稽古が再開する日、爺さんは「見える者の仕事」と剣を、一本の線でつないでみせる。




