塞いだ口
石を積み直そう、と最初に言ったのは村の男だった。
名前はドルグという。村でいちばん荷を担げる男で、俺の倍以上の背丈がある。その人が、腕まくりをして斜面を見上げていた。
「三十年前に石で塞いだんなら、また石で塞げばいい」
もう一人の男が頷いた。
「崩れたとこだけだろ。半日ありゃ積める」
理屈は通っている。穴から水が出ているなら、穴を塞ぐ。子供でも思いつく。実際、俺も最初の三秒はそう思った。
だが、目を戻して、背中が冷えた。
噴き出す水に混ざって出ているあの厚い層は、出口のところで少しだけ薄くなっている。出ているから、薄い。
(出さなかったら、どこへ行く)
俺は石積みの、左の隙間を見た。そこから腕ほどの太さの水が出ている。右側にも、岩と岩の合わせ目があった。そこには何も出ていない。出ていないが、その向こうの土が、うっすら湿って黒い。
隙間は、一つではない。
「爺さん」
声が、自分でも意外なほど低く出た。
「あそこを塞いだら、右から出ます」
ドルグが振り返った。日に焼けた顔が、怪訝そうに歪む。
「坊主。右は塞がっとるだろ」
「塞がってるから、押されてます」
言いながら、俺は自分の言葉が足りていないのを感じていた。見えているものを、見えていない人の言葉に置き換えなければならない。それがこんなに難しいとは思っていなかった。
前世なら図を描いた。ここには紙も炭もない。
俺はしゃがんで、濡れた砂を手で寄せた。
砂の山を作って、真ん中に指で穴を開けた。水たまりの水を掬って、山の裏から流し込む。水は穴から出て、細い筋になって落ちた。
「これが、今です」
俺は穴を砂で埋めた。
三つ数えるほどの間があって、山の横腹が、ぼろりと崩れた。水が別のところから出てきた。さっきより、濁っていた。
男たちは、黙って見ていた。
「塞いでも、中の水は減りません。出る場所が変わるだけです。……変わった先が、どこかは分かりません」
言い切ってから、付け足した。
「分からないのが、いちばん困ると思います」
ドルグが、腕まくりをした腕を下ろした。
「……坊主。じゃあ、どうすんだ」
聞かれて、喉が鳴った。
これまでは、見たことを言えばよかった。母さんに教わったとおりだ。見たことだけ言う。思ったことは、聞かれてから。
今、聞かれた。
「出口を、増やすのはどうですか」
自分の声が、雨の音の中で妙に細く聞こえた。
「塞ぐんじゃなくて、出しやすくします。そのかわり、出た水が沢に入る前に、溜める場所を作ります。そこの、岩がへこんでるところです」
俺は十歩ほど下の、崩れた岩が囲んでいる窪みを指した。
「あそこに溝で引いて、溜めます。溜めたぶんは、沢に落ちません。落ちなければ、川に行きません」
「溜めたら、どうなる」
「……分かりません。でも、動かない水がどうなるかは、川で見ました。ぬるいのが、溜まるだけです。溜まってる場所が決まってれば、近づかずに済みます」
誰かが、ふう、と息を吐いた。
父さんが、初めて口を開いた。
「毒の水を、川に流すか、山に置くかって話だな」
「はい」
「山に置いたら、雨のたんびに溢れるぞ」
「溢れます。だから、溢れる場所を先に決めておきます」
父さんは、それきり何も言わなかった。言わないで、俺の隣に来て、窪みの方を見ていた。
爺さんは、ずっと石積みの前に立っていた。
俺の砂の山も、男たちのやり取りも、たぶん全部聞いていた。聞いた上で、一度も口を挟まなかった。
やがて、振り返った。
「ドルグ。溝を掘れ。深さは膝、幅は肩だ。水に手を入れるな。濡れた手で顔を触るな」
「……爺さん、坊主の言うとおりにするのかよ」
「わしにはあれが見えん」
爺さんは、そこで少しだけ間を置いた。
「見えん者が、見える者の話を聞かん理由がどこにある」
ドルグは口を開けて、閉じて、それから鍬を担いだ。男たちが動き出した。
俺は、その場に立ったまま、手が少し震えているのに気づいた。
怖い、のとは違った。
俺の言ったことで、大人が四人、半日かけて山を掘る。間違っていたら、半日が消える。田の水も半日ぶん遅れる。俺の「たぶん」に、村の半日が乗っている。
(責任って、こういう重さだったか)
前世でも、判断をする人は何人も見た。あのとき俺は、決める人を遠くから眺めて、うまくやってくれと思っていた。決める側の手のひらが、こんなに湿るものだとは知らなかった。
「アレン」
爺さんが、俺のそばに来た。
「震えとるな」
「……すみません」
「謝るな。震えんやつの案は、たいてい雑だ」
そう言って、爺さんは肩から包みを下ろした。
布の紐を、爺さんはゆっくり解いた。
出てきたのは、鞘だった。
黒い革を巻いた、長い鞘だ。ところどころ革が剥げて、下の金具が覗いている。金具には、彫りがあった。雨で濡れた表面に、細い線が浮かんで見える。
剣と、翼のような二本の線。
「王国剣士団の紋だ」
爺さんは、鞘を横にして持っていた。抜く気配はなかった。
「これを提げた者が村に来たら、村は逆らえん。三十年前、ここにそれが来た」
俺は、石積みを見た。
人の手で積んだと分かる、四角い積み方。素人の積み方ではない。
「役人だけじゃ、なかったんですか」
「役人は紙を持ってくる。紙に逆らう者がおれば、剣が来る」
雨が、少し強くなった。
「三十年前、この坑から水が出た。それだけなら王都は動かん。銅は金になる。金になる穴を、王都がわざわざ閉めさせた」
「……何か、出たんですか」
爺さんは答えなかった。
代わりに、鞘の先で石積みの上の方を指した。
「掘り進んだ先に、当たったものがある。村の者は、それを見ておらん。見た者は、村に戻っとらん」
背中を、冷たいものが落ちていった。
雨のせいではなかった。
「わしは、その紙を運んだ一人だ」
爺さんの声は、いつもと同じ高さだった。同じ高さのまま、言葉の中身だけが重くなっていく。
「閉めろという紙だ。中身は読んどらん。読む役ではなかった。届けて、立ち会って、王都へ帰った」
「……それだけ、ですか」
「それだけだ」
爺さんは、鞘を布に戻しはじめた。
「それだけのことを、五十年ぶりだと言ったわしを、お前は昨日、おかしいと思ったな」
見透かされていた。俺は頷いた。
「立ち会った者は、閉めた場所を覚えとる。忘れたと言うには、覚えすぎとる」
紐が、きゅっと締まった。
「三十年、わしはここへ来んかった。来れば、なぜ閉めたかを考えねばならん。考えれば、あのとき何も聞かんかった自分を数えねばならん」
俺は、何も言えなかった。
言葉を探したが、どれも軽かった。仕方がなかった、と言えば嘘になる。この人はそれを許されたくて話しているのではない。
だから、聞いた。
「なんで、今日は来たんですか」
爺さんは、しばらく雨を見ていた。
「お前が、石を置いたからだ」
「……石、ですか」
「毎朝、同じ場所に立った者がおる。立った者が、日にちのついた話をした。村長が動いた。村が動いた。わしが来んわけには、いかんようになった」
口の端が、ほんの少しだけ動いた。
「小僧に、追い立てられた」
俺は、返す言葉を持たなかった。
持たないまま、胸の奥が、じわりと熱くなるのを感じていた。
俺のしたことは、川原にしゃがんで石を置いただけだ。剣でも魔法でもない。それでも、三十年動かなかった人を、山まで歩かせた。
(記録は、人を動かす)
あの部屋で気づいたことの、続きだった。記録は弱い者でも持てる。持った記録は、持った者より大きなものを動かすことがある。
日が傾くころ、溝が窪みまで届いた。
男たちが最後の土を崩すと、噴き出していた水が、方向を変えた。沢へ落ちずに、茶色い筋になって窪みへ流れていく。
俺は、目で追った。
厚い層は、水と一緒に窪みへ落ちた。落ちたところで止まり、溜まりはじめた。沢へ伸びていた糸が、少しずつ細くなっていく。
「……減ってます」
声が掠れた。
「沢に行く分が、減ってます」
ドルグが泥だらけの顔で振り返って、鍬を肩に担ぎ直した。何も言わなかったが、こちらを見る目が、朝とは違っていた。
父さんが、窪みの縁に石を一つ置いた。
置き方を、俺は知っていた。川原でやっていたのと同じだ。水の届いている高さの、ちょうど真上。
「……父さん」
「お前のやり方だろ」
それだけ言って、父さんは泥のついた手を雨に晒した。洗うでもなく、ただ濡らしていた。
「明日からは、俺が来る。お前は川だ」
「一人でですか」
「ドルグが来る。石は俺が置く」
置き方が正しいかどうかも聞かずに、父さんは置いた。見て、覚えていたのだと思う。いつから見ていたのかは、聞かなかった。
爺さんが、窪みを見下ろしたまま言った。
「これは直したのではない。先延ばしにしただけだ」
「はい」
「分かっとるか」
「分かってます」
俺は窪みを見た。ぬるいものが、静かに溜まっていく。三十年前、誰かが同じことをした。石で塞いで、立て札を立てて、帰った。
俺のやったことは、その人たちと、そんなに違わない。
違うのは、一つだけだ。
「爺さん。ここに何を溜めたか、書いておきます」
爺さんの眉が、わずかに動いた。
「書いて、どうする」
「三十年後に、誰かが読みます」
雨の音が、ふっと途切れた。
空の端が、ほんの少し明るくなっていた。
(次回)
第二十九話「札を立てる」
窪みに溜まったものに、名前をつけなければならない。アレンは村へ戻り、初めて自分の手で「残すための文字」を書きはじめる。だが村の文字は、あれを書き表せない。そして父さんが、三十年前の立て札を見たことがある、と言い出す。




