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五日目の雨

 雨は、四日目の夜に来た。


 寝ているあいだに屋根が鳴りだして、目が覚めた。はじめは粒の音が数えられるくらいだったのが、明け方には一つの音になっていた。板戸の隙間から、冷たい風が細く入ってくる。


(五日後に人をやる、の五日目だ)


 布団の中で、俺は天井を見ていた。


 雨が降れば日を早める。村長のヤーゴはそう決めた。あの堂々巡りの部屋で、いちばんあっさり決まったのが、その一行だった。誰も反対しなかった。反対のしようがなかったのだと、今なら分かる。雨は、こちらの都合を聞かない。


 土間に下りると、母さんがもう火を熾していた。


「川には行かないのよ」


「縁からも、ですか」


「縁からもです。増えてるから」


 戸を開けると、外は灰色だった。軒から落ちる水が、地面に細い溝を掘っている。昨日まで乾いていた道が、もう黒くなっていた。


 エルナが来たのは、朝飯の途中だった。


 戸口に立ったあいつは、頭から水を被ったみたいになっていた。母さんが手拭いを投げると、顔を拭きもせずに言った。


「石、沈んでた」


 俺は箸を置いた。


「全部か」


「全部。四つとも。水が土手の草のとこまで来てる」


「茶色は」


「見えない」


 エルナは手拭いを握ったまま、少しだけ悔しそうな顔をした。


「川、ぜんぶ茶色いもん。雨で濁ってて、どれが濁りでどれがあれなのか、あたしには分かんない」


 そうだろうな、と思った。


 俺たちの物差しは、水草の色と石の高さだった。石は沈んだ。水草は濁りの下だ。昨日と今日を並べるための道具が、一晩でまとめて使えなくなった。


(記録が、抜けた)


 前世で言うなら、計器が一つ壊れたようなものだ。壊れた日に限って、いちばん見ていたい変化が起きている。


 俺は立ち上がって、土間の壁に立てかけた板を裏返した。炭の線が、四日ぶん並んでいる。五日目の行だけが、空いている。


「アレン」


 母さんが竈の前から言った。


「その顔、やめなさい」


「……どんな顔ですか」


「自分が悪いみたいな顔」


 言われて、頬を一度こすった。


 爺さんは、昼を待たずに来た。


 蓑も笠もつけずに、ただ濡れて立っていた。肩に、あの布に巻いた長いものを担いでいる。


「ヤーゴが日を繰り上げた。男は四人。明日の朝ではない。今から出る」


 父さんが土間から出てきて、無言で荷を取りに行った。話はもう済んでいるらしかった。


 爺さんは俺を見た。


「アレン。ついてこい」


 一瞬、聞き違いかと思った。


「……俺が、ですか」


「お前の目が要る」


 母さんが竈の前で手を止めた。止めただけで、何も言わなかった。


「濁った水を、大人四人が覗き込んだところで何も見えん。わしにも見えん」


 爺さんは雨の音に負けない声で、それだけを言った。


「見えるのは、お前だ」


 背中のあたりが、きゅっと縮んだ。怖さも半分ある。だが、それだけではなかった。


 この人は、俺を連れていくと決めるまでに、たぶん何日か考えている。八歳を山へやると村長に言うのも、母さんの前でこう言うのも、簡単なことではないはずだ。


「行きます」


 言ってから、母さんの方を向いた。


 母さんは薬草の袋を一つ取って、俺の腰紐に結んだ。結び目を二度確かめて、それから手を離した。


「グレンさま。この子、水に入れないでください」


「入れん」


「それと」


 母さんの声が、ほんの少しだけ低くなった。


「見たことだけ言わせてください。思ったことは、聞いてやってください」


 爺さんは、初めて口の端を動かした。


「同じことを、わしも言うつもりだった」


 エルナが戸口で、行きたい、という顔をしていた。口には出さなかった。俺は板を指さして、言った。


「川、頼む。縁から見るだけでいい。雨がやんだら、石を探せ」


「見つからなかったら」


「見つからなかった、って書いとけ」


 あいつは目をぱちぱちさせて、それから、ちゃんと頷いた。


 山道は、水が流れていた。


 道と沢の区別がつかない。爺さんが先を歩き、その後ろに村の男が二人、俺、最後に父さんという並びだった。父さんは俺の半歩後ろから、ずっと同じ距離を保っている。


 登るにつれて、雨の音が変わった。葉に当たる音から、土に叩きつける音になる。


 林を抜けたところで、爺さんが足を止めた。


「ここから先は、わしも五十年ぶりだ」


 尾根だった。


 俺は、初めて村の向こう側を見た。


 山はここで終わりではなかった。向こうにもう一つ低い稜線があって、その間に、細い谷が落ち込んでいる。谷の底に、川とは呼べない幅の水が光っていた。あれが東の沢だ。村から見ていた山は、ただの手前の一枚だったのだと、そこで初めて知った。


(世界が、一枚めくれたな)


 村と山と川。俺の地図はずっとその三つで足りていた。足りていたのではなく、そこまでしか見たことがなかっただけだ。


 谷へ下りはじめてすぐ、足の裏の感じが変わった。


 いや、足ではない。


「爺さん」


「言え」


「魔素が、下に溜まってます」


 爺さんは振り返らずに歩きながら聞いた。


「川と同じか」


「同じです。ぬるくて、動かないやつです。でも、川のより──」


 言葉を探した。濃い、では足りない。


「厚いです。層になってます。谷の底から、俺の胸くらいの高さまで」


 前を行く男の一人が、ちらりとこちらを見た。何を言っているんだこの子供は、という顔だった。当然だと思う。


 それでも、俺は口を閉じなかった。


 恥をかきたくない者の報告は、いつも遅い。あの言葉は、もう俺の中で固まっている。


「爺さん。雨が降ると、それはどうなりますか」


「知らん。だから見にきた」


 あっさり言われて、なぜか気が楽になった。


 谷底に下りたとき、雨がふっと弱まった。


 水の音が、急にはっきり聞こえた。


 沢は、思ったより広かった。両側に崩れた岩が転がっていて、その奥、斜面の中ほどに、黒い影がある。


 積んだ石だ。人の手で積んだと分かる、四角い積み方。その上に土と草が乗って、三十年ぶんの山が被さっている。


 塞いだ口。


 その横から、水が出ていた。


 父さんが言っていた「細い」ではなかった。俺の腕くらいの太さの水が、石積みの左の隙間から、まっすぐ噴き出している。落ちた先の石が、そこだけ赤茶けていた。


 誰も、しばらく喋らなかった。


 男の一人が、ぼそりと言った。


「……朝より、増えとるんじゃないか」


「増えとる」


 爺さんが答えた。


 俺は、水そのものは見ていなかった。


 見ていたのは、その水の中にあるものだ。


 噴き出す水に、あの厚い層が混じって出てくる。出た端から、谷の空気に薄く広がって、沢の水へ落ちていく。落ちたものは、流れに乗って下へ行く。


 川で見た、下流へ伸びる細い糸。あれの、根元だった。


(ここが出口だ。ずっと、出口を探してたんだ)


 六日、毎朝あの窪みを覗いていた理由が、いま一本につながった。


「爺さん」


 俺は、指を差した。


「あの穴から出てるのは、水だけじゃないです。ぬるいのが、一緒に押し出されてます。雨で中の水が増えて、押し出す力が強くなってます」


「止まるか」


「雨がやんでも、しばらくは止まりません」


「なぜ言える」


 喉が詰まりかけて、押し戻した。


「中に溜まったぶんが、出きるまで出るからです。……たぶん、です。たぶん、の話です」


 言い切った。たぶん、を隠さずに言った。


 爺さんは、しばらく石積みを見ていた。


 それから、担いでいた布の包みを下ろした。中身が、初めて見えた。


 鞘だった。木剣ではない。刃の入った、古い鞘だ。


「三十年前、これを閉めさせたのは王都だ」


 爺さんの声が、雨の中で妙に静かに聞こえた。


「そのとき、わしは王都におった」


 俺は、何も言えなかった。


 この人は昨日、名は知っとった、と言った。


 名前だけ知っている場所に、五十年ぶり、とは言わない。


(次回)

第二十八話「塞いだ口」


 噴き出す水を前に、大人たちは石を積み直そうとする。だがアレンの目には、塞げば行き場をなくすものが見えている。爺さんが古い鞘の紐を解く。三十年前、この穴を閉めさせた王都と、そこにいた一人の剣士の話が、ほんの一寸だけ開く。

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