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赤い土

 朝、俺は川に行かなかった。


 行くなと言われたからだが、体の方が落ち着かない。竈の前で母さんの手伝いをしていても、指が勝手に石の数を数えていた。三つ。昨日で、三つ。今日置くはずだった四つ目を、誰も置かない。


(一日空けば、そこで線が切れる)


 土間から父さんの声がした。


「アレン。支度しろ」


「どこへですか」


「村長のとこだ」


 俺は手を止めた。


「……俺もですか」


「見たのは、お前だろ」


 それだけ言って、父さんは先に出ていった。母さんが手拭いを持ってきて、俺の襟を一度だけ直した。


「見たことだけ、言いなさい」


「見たことだけ」


「そう。思ったことは、聞かれてから」


 母さんは俺の肩を軽く押した。押す力が、思ったより強かった。


 村長の家の板の間には、大人が十人ばかり集まっていた。


 村長のヤーゴは白髪の痩せた老人で、普段は畦で日向ぼっこをしている。今朝は上座に座って、背中がまっすぐ伸びていた。村の男たちが数人、洗い場を仕切っている女が二人。それから、爺さんと父さん。


 俺は入口の近くに立たされた。八歳が入っていい場所ではない、という空気は確かにあった。誰かが「子供を呼ぶことは」と言いかけて、爺さんが一度そちらを見ると、続きは出てこなかった。


 板の間の真ん中に、布が広げてある。


 赤茶けた土が、一掴み。昨夜、父さんが竈の棚に置いたものだ。


 ヤーゴがそれを指でつまみ、掌にこすりつけて、匂いを嗅いだ。それから、長いこと黙っていた。


「……坑の土だな」


 坑、と誰かが繰り返した。


「東の沢の、上の方だ」


 ヤーゴは布の上に土を戻した。


「三十年前まで、あそこは銅を掘っとった」


 大人たちの間が、ざわりと動いた。若い男が何人か、初めて聞く顔をしている。俺と同じだった。


「わしが若い頃だ。村の男の半分が、あそこで日銭を稼いどった。掘り進むうちに水が出た。押さえきれんようになって、王都から来た役人が閉めた」


「閉めた、ってのは」


「石と土で、口を塞いだ。それきりだ。近づくなという立て札が立って、二十年もすりゃ札も倒れる。今じゃ、道も残っとらん」


 廃坑。


 その言葉を、俺は生まれ変わってから初めて聞いた。


(塞いだ、だけか)


 背中が、じわりと冷えた。


 中の水は、どこへも行かない。行かないまま三十年、岩と鉄と一緒に座っている。そういう水が何になるかを、俺は前世の知識で少しだけ知っていた。名前も理屈も、この世界の言葉では説明できないが。


「ヤーゴさま」


 父さんが口を開いた。


「沢の上で、斜面が崩れとった。新しい崩れだ。水が、塞いだ口の横から出とる」


「量は」


「細い。だが、止まっとらん」


 誰かが息を吐いた。


 女たちの側から、声が上がった。


「ヤーゴさま。なら、水はいつ使えるようになりますか」


 洗い場を仕切っているハンナだった。エルナの母さんと並んで、いつも桶の順番を決めている人だ。


「昨日から、川を止めとります。井戸は二つ。うちの組は十六軒。煮炊きと飲み水だけなら、どうにか回ります。ですが」


「洗濯か」


「それと、田です」


 誰も、すぐには答えなかった。


 この時期の田は、水を切らしてはいけない。俺でも知っている。去年、上の田で水口が詰まって半日止まったとき、大人たちが鍬を放り出して走っていったのを見た。


「四日は、持ちます」


 母さんの声だった。


 俺はそこで初めて、母さんが女たちの側に座っていることに気づいた。薬草の袋を膝に乗せて、背筋を伸ばしている。家で見る母さんより、少し硬い顔をしていた。


「四日というのは」


「昨日、浅瀬で魚が一匹だけ浮きました。一匹です。水を口に入れて障るところまでは、まだ来ておりません。ですが、伸びる速さが分かっておりますので、四日と申し上げました」


「その速さは、誰が測った」


 母さんは、俺の方を見なかった。


「うちの子です」


 板の間の視線が、いっせいに入口の方へ来た。


 話は、そこから堂々巡りになった。


 沢まで人をやるべきだ。いや、この時期に人手を割いたら畑が持たない。四人でも足りるのか。崩れた斜面を素人が掘ってどうなる。王都に人をやって、役人を呼び戻すべきではないか。それこそ何日かかる。


 声が重なって、大きくなる。


(要件が決まる前に、手順の話をしてる)


 前世の会議室と、同じ形だった。何を先に決めるかが決まっていないと、人は決めやすい話から先に手をつける。そうして一番大事な一行が、いつまでも空欄のまま残る。


 やがて一人の男が、俺の方を見た。


「そもそも、どこまで来とるって話だよ。坊主が言ったってだけだろ」


 悪意はなかったと思う。ただ、事実として正しい指摘だった。


 俺は、喉が詰まるのを感じた。


 ここで「たぶん」と言えば、それで終わる。前の前の日、爺さんに言われたことが耳の奥で鳴った。恥をかきたくない者の報告は、いつも遅い。


 息を吸って、声を出した。


「六日前、大岩の裏の窪みで止まりました。四日前から水草が茶色くなって、三日前に石を置きました。二つです」


 板の間が、少し静かになった。


「昨日の朝、石より指二本ぶん上まで茶色が上がってました。同じ朝、浅瀬に魚が一匹浮いてました。昼にもう一つ石を置いて、夕方までにもう指一本ぶん伸びました。午前より遅いです」


 言い切ってから、付け足した。


「なぜ遅くなったのかは、分かりません」


 誰も、すぐには喋らなかった。


 ヤーゴが、細い目を少しだけ開いた。


「石は、まだあるか」


「あります。三つとも、川原に」


「いつ置いた石か、分かるか」


「分かります。下から順です」


 ヤーゴは頷いた。それから、さっき俺に言った男の方を見て、静かに言った。


「日にちのついた話を、この場でしたのは、この子だけだ」


 男は口を開けて、閉じた。


 俺は、自分の指先が震えているのに気づいた。怖いからではなかった。


(記録だ)


 頭の中で、何かが噛み合った音がした。


 俺は八歳で、体は小さく、剣も魔素もまだ子供の遊びの範囲だ。この部屋で一番弱い。それでも、昨日と今日を並べて言えるのは、俺だけだった。


 毎朝そこに立って、石を置いて、高さを覚えていただけだ。誰にでもできる。誰にでもできることを、誰もやっていなかった。


(記録は、いちばん弱い立場の者でも持てる)


 前世で、俺は日誌に一行書いて黙った。あのとき俺に足りなかったのは、力でも権限でもなかった。書いたものを、口に出す順番だけだった。


 結論は、思ったよりあっさり出た。


 川の水は、当面使わない。飲み水と煮炊きは村の井戸二つ。田の水口は明日から閉める。沢の上へは、五日後に男を四人やる。それまでに雨が降れば、日を早める。


 そして最後に、ヤーゴが俺を見た。


「小僧。石は、毎日置けるか」


「置けます」


「川には入るな。縁からだ」


「はい」


 言ってから、俺は一つ足した。


「俺が置けない日は、エルナに置かせます。ハーバーのとこの娘です」


「二人でか」


「一人だと、休んだ日に線が切れます」


 ヤーゴは少し笑って、それ以上は何も言わなかった。


 帰り際、俺は爺さんの横に並んだ。


「爺さん。廃坑のこと、知ってましたか」


 爺さんは前を見たまま歩いていた。


「名は知っとった」


「名だけですか」


「三十年前、わしは王都におった」


 それだけだった。


 少し歩いてから、爺さんが足を止めた。


「アレン。坑を閉めるのに、なぜ王都から人が来る」


 考えた。銅は金になる。金になるものを閉めるなら、村の得より上の理屈がいる。


「……村だけの話じゃなかったから、ですか」


 爺さんは答えなかった。答えない代わりに、また歩き出した。それが、当たりのときの歩き方だということを、俺はこの一年で覚えてしまっていた。


 いつもの半分だ。だが今度は、半分の切り口が、前より鋭く見えた。王都にいた、と言った。閉めに来た役人がどこから来たかを、この人はさっき、黙って聞いていた。


 聞き返さなかった。聞いても、この人は言わない。言わないものを引き出す道具を、俺はまだ持っていない。


 持てるようになるまで、覚えておくことにした。


(これも、記録だ)


 夕方、俺はエルナを土手に呼んだ。


 川には下りずに、二人で縁に座って、三つの石を見下ろした。


「四つ目、今日は置けないよね」


「置けない。でも明日から、お前も置く」


 エルナが目を丸くした。


「あたしも?」


「俺が熱出したら終わる。二人なら終わらない」


 エルナは膝を抱えて、しばらく石を見ていた。


「石の置き方、間違えたらどうすんの」


「間違え方も、書いておく」


「書くの」


「書く。俺が忘れたときのためにも」


 あいつは「ふうん」と言って、それから急に笑った。


「あんた、じいさんみたい」


「爺さんは字を書かない」


「じゃあ、あんたの方が上」


 軽く言われて、なぜか胸のあたりが少し温かくなった。


 その夜、俺は木の板の裏に、炭で線を引いた。日にちと、石の位置と、気づいたこと。字はまだ下手で、この世界の文字は半分しか書けない。書けない言葉は、絵にした。


 書き終えて、板を裏返して壁に立てかけた。


 明日の朝、四つ目の石を置く。置いたら、線が一本伸びる。


 伸びた線を、いつか誰かが読む。


 それだけのことが、どうしてか、剣の稽古と同じくらい大事なことのように思えた。


(次回)

第二十七話「五日目の雨」


 沢へ人をやる前に、雨が来る。増えた水は、坑から何を押し出すのか。村の決めごとは前倒しになり、爺さんはアレンに「ついてこい」と言う。初めて、山の向こう側へ。

 お読みいただき、ありがとうございます。玲鈴です。

 今回は剣も魔法もほとんど出てこない、大人たちの会議の話になりました。それでもアレンにとっては大きな一歩だったと思います。八歳の子供が大人の部屋で信用されるとしたら、それは何なのか──書きながらずっと考えていました。皆さんなら、あの場で声を出せたでしょうか。

 ブックマークや評価をいただけると、次を書く手が少し速くなります。次回、ようやく山の向こうへ行きます。

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