川上へ
二人が村を出たのは、まだ日の出る前だった。
俺は井戸端まで見送りに行った。父さんは背に荷を負い、腰に昨夜の剣を差していた。爺さんは木剣ではなく、布に巻いた長いものを肩に担いでいた。中身は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
「アレン」
暗いうちの爺さんの声は、昼より低い。
「川原に出てよい。だが、大岩から上へは一歩も行くな」
「……はい」
「石は、今日も置け」
それだけだった。二人は林の方へ歩いていって、どちらも一度も振り返らなかった。
(見送る側の作法は、誰も教えてくれないんだよな)
母さんは家の戸口に立ったまま、二人の背中が見えなくなるまでそこにいた。俺が戻ると、何も言わずに竈の前にしゃがんだ。火をおこす手が、いつもより丁寧だった。
川原に着いたのは、日が林の上に出たすぐあとだ。
風は、いつもの向きに戻っていた。川下から吹き上がってくる。匂いは、しない。
俺は水に入る前に、まず二つの石を見に行った。
昨日の朝、俺とエルナが並べた石だ。茶色が届いている高さの、ちょうど真上に置いた。
石は、茶色の中にあった。
沈んだのではない。水が増えたのでもない。石の周りの水草が、石より上まで色を失っていた。
境目が、指二本ぶん上がっていた。
一日で、指二本。
(進行の速さが出た。これで初めて、増えている、と言える)
嬉しくはなかった。速さが出るというのは、あれが本当だったという意味だ。
顔を上げて、下流を見た。
見てから、体が固くなった。
沈んだ魔素が、淀みの外に出ていた。
六日前は、大岩の裏の窪みの中だけだった。昨日までも、そこから動いていなかった。俺は毎朝それを確かめて、動いていないことに半分安心していた。
今朝は、違った。
窪みから細く尾を引くように、それが下流へ伸びている。ぬるい、動けずにいるあの手触りが、細くて速い流れの中に、糸を垂らすみたいに混じっていた。
目で追った。
浅瀬まで来ていた。
夏の子供が小魚を追い込む、あの場所だ。そこから五十歩も下れば、女たちの洗い場がある。洗い場のさらに下で、田の水口が川から水を引いている。
浅瀬の石の陰に、小魚が一匹、腹を上にして揺れていた。まだ流されずに、石にひっかかっている。
俺はしゃがんで、それを見た。
しばらく、動けなかった。
「アレンー!」
土手の上から声がした。振り向くまでもない。あいつは今日も、坂を走って下りてくる。
「爺さまたち、朝早くに出てったって。うちの母さんが──」
言いながら、俺の顔を見て、止まった。
「……なに」
「見ろ」
俺は浅瀬を指した。エルナはしゃがんで、小魚を見て、それから顔を上げた。
「死んでる」
「一匹だけだ。まだ」
「まだ、って言い方やめてよ」
声は震えていなかった。目だけが、まっすぐ下流を追っていた。
「洗い場、あっちだよね」
「ああ」
「田んぼも」
「ああ」
二人で、しばらく黙った。川の音が、やけに大きく聞こえた。
俺の頭の中は、逆に静かだった。静かすぎて、自分でも気味が悪かった。
できることは三つだ。
一つ、上流へ走って爺さんと父さんに伝える。まだ追いつけるかもしれない。だが大岩から上へ行くなと言われている。それ以前に、二人はもう原因のある場所へ向かっている。原因の場所に、これが下へ伸びましたと伝えて、何が変わる。
二つ、二人が戻るのを待つ。日暮れには戻ると母さんは言っていた。それがいちばん叱られない。
三つ──
(下流だ)
背中が、かっと熱くなった。
俺はずっと、報告というのは上に上げるものだと思っていた。前世でもそうだった。異常を見つけたら責任者に上げる。上げたら、自分の手はそこで離れる。
違う。
水は、下に流れる。
被害の出る場所と、決める人間が、同じ方向にいるとは限らない。今この瞬間に伝えるべき相手は、林の向こうの二人ではない。これから川の水を汲む人たちだ。
「エルナ」
「うん」
「お前、村で一番足が速い」
「知ってる」
「洗い場に走れ。今日は川の水を使うなって言え。飲むのも、洗うのも、田に引くのもだ」
エルナは目を丸くした。
「あたしが言って、聞いてくれるかな」
いい問いだった。八歳の子供が、水を使うなと叫んで回る。昨日、村の男が二人、上流を見て何もなかったと言って帰ってきたばかりの村で。
「なら、母さんの名前を出せ。アリスが見に来るまで待ってくれって」
「アレンの母さんの?」
「薬師見習いだ。水の話なら、俺よりは通る」
言ってから、自分でひやりとした。母さんの名前を、断りもなく使っている。
それでも、これがいちばん通る。通る方を選んだ。
「あんたは?」
「母さんを呼びに行く。そのあと、ここに戻る」
「戻るの?」
「誰かが見てなきゃ、どこまで来たか、分かんなくなる」
エルナは一瞬だけ、変な顔をした。それから、笑った。
「うん。あんたはそっちだ」
言い終わる前に、もう走り出していた。土手を駆け上がる背中は、ほんとうに速い。風がついていっている、と初めて思った。
母さんは、話の途中で立ち上がった。
最後まで聞かなかった。小魚のところまで言ったところで、薬草の袋と手拭いを掴んで、草履のまま土間を出た。
「アレン。魚は触った?」
「触ってません」
「よろしい」
歩きながら、母さんが聞いた。
「水草の色は、どこまで」
「昨日置いた石より、指二本ぶん上です」
「昨日と、比べたのね」
「……はい」
母さんは前を見たまま、少しだけ笑ったようだった。
「あなた、ときどきグレンさまと同じ喋り方をするわ」
どう返していいか、分からなかった。
村に入ると、母さんの足がさらに速くなった。洗い場には人が集まっていて、その真ん中でエルナが、腰に手を当てて何か言っていた。女たちは笑っていなかった。
母さんが一言、二言、話した。それだけで、桶が伏せられた。
早かった。俺が半日かけても動かせなかったであろうものが、大人が一人来ただけで動いた。
悔しくはなかった。むしろ、肩から力が抜けた。
(そうだよな。俺は、動かす人じゃない。見つける人だ)
それでいい、と初めて思えた。
昼過ぎ、俺は川原に戻った。
新しい石を、茶色の届いている高さの真上に置いた。今朝の二つより、指二本ぶん上だ。三つ並んだ石は、ちょっとした墓標みたいに見えて、すぐにその考えを追い払った。
それから、日が傾くまで、そこにいた。
水には入らなかった。稽古のことは、一度も頭に浮かばなかった。ただ座って、下流へ伸びていく糸を見ていた。夕方までに、それはあと指一本ぶんだけ伸びた。
午前より、遅い。
水を汲む者がいなくなったからか、たまたまか。分からない。分からないことは分からないまま、頭の中の日誌に書いておいた。
日が林に落ちかけた頃、上流の道に人影が出た。
二つ。
俺は立ち上がって、待った。走りたかったが、足が地面から離れなかった。
爺さんが先で、父さんが後ろだった。父さんの左の手の甲に、布が巻かれている。血は滲んでいない。爺さんは、朝と同じものを担いでいた。
二人とも、顔に土がついていた。乾いた土ではない。赤茶けて、湿った土だ。
「アレン」
爺さんが、俺の顔を見た。
「洗い場の桶が、伏せてあった」
「……はい」
「誰の指図だ」
喉が渇いた。
「俺です」
言い切ってから、続きを足しそうになった。母さんが来てくれて、とか、エルナが走ってくれて、とか。全部、本当のことだ。本当のことを足せば、俺の取り分はきれいに小さくなる。小さくしておきたかった。
言わなかった。
爺さんは、しばらく黙っていた。
それから、俺の頭に手を置いた。稽古で肩を叩かれたことは何度もあるが、頭に手が乗ったのは、たぶん初めてだった。重かった。
「上出来だ」
それだけ言って、手を離した。
父さんが、横を通り過ぎながら、ぼそりと言った。
「桶、俺が伏せたことにしといてやろうか」
「……なんでですか」
「言われるだろ。子供の分際で、とか」
父さんは前を見たまま歩いている。
「いえ」
自分の声は、思ったよりはっきり出た。
「俺が言ったことにしてください」
父さんは、返事をしなかった。ただ、傷のある方の口の端が、少しだけ動いた気がした。
その夜、爺さんは家に上がらなかった。庭先で父さんと短く話して、そのまま村長の家の方へ歩いていった。
父さんは土間で、荷の中から布の包みを出した。中に入っていたのは、赤茶けた土だった。一掴みぶん。
俺は、離れたところからそれを見た。
匂いは、今朝の川と同じだった。鉄と、掘り返した土。
父さんは俺に見せるでも隠すでもなく、包みを結び直して、竈の棚の上に置いた。
「明日は、川に行くな」
「はい」
「しばらくな」
しばらく、が何日なのかは言わなかった。
布団の中で、俺は三つの石のことを考えていた。明日行かないなら、明日の指二本を、誰も測らない。
同じ場所に毎日立つ者だけが、変わったことに気づける。
その者が立てなくなったとき、川は昨日を、誰に渡すんだろう。
(引き継ぎの覚え書きが、要るな)
我ながら、色気のない結論だった。それでも、眠るまでずっとそれを考えていた。
(次回)
第二十六話「赤い土」
村長の家に、大人たちが集まる。廃坑、という言葉を、アレンは初めて聞く。三十年前に閉じられたはずの穴が、なぜ今になって川を濁らせるのか。爺さんは何かを知っている顔で、いつものように半分しか話さない。




