上流の匂い
村の男たちは、昼を少し過ぎた頃に戻ってきた。
二人とも、朝と同じ顔をしていた。汗はかいているが、それだけだ。鎌の刃も、出ていったときのまま光っている。
「なんもなかったぞ」
土手の下から、そう言った。俺は道の端に立って、それを聞いた。
林を抜けて、川が曲がるところまで上がった。獣の死骸もない。倒木もない。水は澄んでいる。魚も普通に泳いでいる。強いて言えば夏にしては水が冷たかったが、山からの水はいつもそんなものだ。
「坊主の勘違いだろ」
悪気のある言い方ではなかった。むしろ、笑って言われた。よかったな、という意味の笑い方だった。
俺は礼を言って、頭を下げた。下げながら、腹の底が少しだけ縮んだ。
(証拠がなかった、じゃない。無かった、で終わったな)
前世で何度も見た終わり方だった。調べました、問題ありませんでした、以上。報告書の最後の一行はいつもそれで、そこから先を書く欄はどこにもない。
それでも、淀みの魔素は沈んだままだった。
翌朝、俺は川に立った。真っ先に見に行きたいのを我慢して、まず向こう岸の岩を目指した。波を立てずに、四歩。
四歩目で崩れてから、ようやく上流に目をやった。
変わっていない。大岩の裏の窪みで、魔素だけがぬるく澱んでいる。細くて速い川の流れの中に、そこだけ動かない一角がある。
水草の茶色は、少し広がっていた。
昨日は根元だけだったのが、葉の半ばまで色を失っている。上流の草はまだ青い。境目が、はっきり見える。
蛙は、やはり鳴かなかった。
俺は川原の石を一つ拾って、水草の生えている縁に置いた。茶色が届いている高さの、ちょうど真上だ。
「なにしてんの」
エルナが土手を駆け下りてきて、俺の手元を覗き込んだ。
「印」
「しるし?」
「明日、この石より上まで茶色くなってたら、進んでるってことだ」
エルナは石と水草を交互に見て、それから「ふうん」と言った。分かったのか分かっていないのか、微妙な返事だった。
「じゃあ、あたしも」
言うが早いか、あいつは自分でも石を拾って、俺の石の隣に並べた。
「二個あった方が分かりやすいでしょ。片っぽ流されたときも困んないし」
……こいつは時々、俺より段取りがいい。
爺さんは、稽古の場を川から動かさなかった。
それが、俺にはよく分からなかった。
村の男が見てきて何もなかった。俺の言い分は裏が取れなかった。ならば普通は、稽古を山に戻すか、そのまま川で稽古を続けるにしても、俺に「もう気にするな」の一言くらいはありそうなものだ。
なのに爺さんは、何も言わない。
毎朝、いつもの石の上に座って、俺が水に入るのを見ている。俺が上流を見に行っても、止めない。石を並べたことにも触れない。エルナに走り込みをさせて、昼になれば握り飯を食い、日が傾けば帰る。
三日、そうだった。
四日目の昼、俺は握り飯を持ったまま、聞いてしまった。
「爺さん。なんで、まだ川なんですか」
爺さんは湯呑みを口から離した。
「山に戻りたいか」
「そうじゃなくて。……何もなかったって、結論が出たのに」
「出ておらん」
短かった。
「男二人が一度歩いて見つからんかった。それだけだ。それを結論と呼ぶのは、お前の悪い癖だな」
言われて、俺は自分の手の中の握り飯を見た。
誰かがそう言ってくれるのを、待っていた気がする。勘違いだったと決めてもらえれば、俺はもう見なくて済む。毎朝あの窪みを覗き込んで、何も変わっていないことに安心したり、少し広がっていることに肚を冷やしたりしなくて済む。
楽になりたかったのだ。
「アレン」
「はい」
「明日も、明後日も、同じ場所に立て」
「……立ちます」
「同じ場所に毎日立つ者だけが、変わったことに気づける。昨日と比べられんものは、変わったかどうかも言えん」
息が、詰まった。
(定点観測だ。この人、それを剣の稽古の顔でやってる)
爺さんが稽古の場を動かさない理由が、そこでようやく分かった。俺の足運びのためではない。俺が毎朝、同じ水に入って、同じ窪みを見るためだ。
観測点を動かせば、変化は測れなくなる。基準がなくなるからだ。
昨日の四歩は今日の四歩を保証しない、と俺は川に通いはじめた頃に思った。持ち越しのきかない相手だと。
あれは半分しか合っていなかった。
持ち越せないのは、水の方ではない。毎日そこに立ちつづける者がいなければ、川は昨日を誰にも渡せないというだけの話だ。渡す相手がいれば、川はちゃんと差し出してくる。茶色い水草の高さで、鳴かない蛙で、沈んだままの魔素で。
この人は魔素の手触りが分からないと言った。分からないまま、分かる俺を毎日そこに立たせている。自分に見えないものを見る道具を、置き場所ごと動かさずにいる。
変化に気づいたのは、その翌朝だった。
夜のあいだに風が向きを変えていた。いつもは川下から吹き上がってくるのが、その朝だけは、川上から下りてきていた。
水に入って、三歩。四歩。五歩目で輪が出て、俺は足を止めた。
止めた拍子に、鼻が動いた。
匂った。
ごく薄い。息を止めて、意識して吸わないと消えてしまうくらいの薄さだ。だが、確かに川の匂いではなかった。
水の匂いでも、草の匂いでもない。
少し、鉄に似ていた。冬に井戸の釣瓶が凍りついたとき、あの鎖を握った手のひらに残る匂い。それと、土を深く掘り返したときの、湿ってひんやりした匂いが混ざっている。
「エルナ」
川原の石に座っていたエルナが顔を上げた。
「息、止めろ。それから、川上の方向いて吸ってみろ」
「なにそれ」
「いいから」
文句を言いながら、あいつは言われた通りにした。目を閉じて、鼻から細く吸って──ぱちりと目を開けた。
「うわ。なんかする」
「するか」
「する。……錆びた釘みたいな」
俺の言葉ではなかった。俺が言う前に、あいつが自分の言葉で言った。
背中を、冷たいものが上がっていった。
俺だけが感じているものではなかった。目に見えないもの、魔素の手触り、そういう俺だけの話ではない。鼻がある者なら誰でも届く場所まで、それは下りてきていた。
「風、今日だけ逆だからね」
エルナが川上を見ながら言った。
「いつもは下から吹くもん。だから昨日までは、こっちに来てなかっただけ」
なるほど、と思った。
ずっとそこにあったのに、運ぶものがなかっただけだ。今朝、風が届けに来た。
村の男たちが川上まで歩いて、何も見つけずに戻ってきた日。あの日も、風は下から吹いていたはずだ。二人は匂いのしない道を歩いて、匂いのしない場所を見て、帰ってきた。
嘘をついたわけでも、手を抜いたわけでもない。
見に行った日が、たまたま風向きの悪い日だった。それだけのことで、何もなかった、が一度できあがってしまう。
(一度の確認で無いと言えるのは、探し方が正しかったときだけだ)
俺は水から上がって、石の上の手ぬぐいを掴んだ。指が少し震えていた。寒いからではなかった。
爺さんは、話を最後まで聞いた。
俺は今度、「気のせいです」と言わなかった。言いそうになって、喉のところで止めた。止めるのに、思ったより力がいった。
「匂いがしました。鉄と、掘り返した土みたいな匂いです。エルナも嗅ぎました。風が川上から下りてきた今朝だけです」
それだけを言って、口を閉じた。
爺さんは目を閉じて、しばらく黙っていた。それから立ち上がって、川上の林の方を、ずいぶん長いこと見ていた。
「今日は、稽古なしだ」
「爺さん──」
「お前らは村に戻れ。今日は川に来るな」
言い方が、これまでのどれとも違った。
怒っているのでもない、静かなのでもない。ただ、余分なものが全部落ちた声だった。この人が五十年、剣で食ってきたときの声なのだと思った。
「爺さま、上流行くの?」
エルナが聞いた。
「わし一人ではない」
爺さんは川原を出ながら、背中で言った。
「お前の父を借りる」
夕方、家の土間で、父さんが荷を分けていた。
水と、火口と、細い縄。それから、納屋の奥にしまってあった剣を、布から出して膝の上に置いていた。俺は、父さんが剣を手に持つのを、生まれてから一度も見たことがなかった。
母さんは何も言わなかった。薬草の袋を一つ、荷の上に足しただけだった。
「父さん」
「ん」
「……俺のせいですか」
父さんは手を止めて、俺を見た。右頬の古傷が、囲炉裏の火で少しだけ赤く見えた。
「なんでだ」
「俺が、言ったから」
父さんは、少し笑ったようだった。笑ったというより、口の端が動いただけだ。
「言わなきゃ、俺は明日も畑に行ってた」
布を戻して、剣を横に置く。
「そっちの方が、まずいだろ」
それだけだった。
布団に入っても、しばらく眠れなかった。
俺が言わなければ、明日は誰も川上に行かない。父さんは畑に行って、爺さんは石の上に座っている。何事もない一日が、確かにそこにあった。
俺が一つ喋ったせいで、明日が別の形になった。
(報告は、上げれば終わりじゃない。上げた先で、誰かが動く)
前世では、そこまで考えたことがなかった。上げるか上げないかは俺の問題で、そこから先は別の誰かの仕事だと思っていた。
違う。地続きだ。
軒の外で、風が鳴っている。川下から吹き上がる、いつもの向きに戻っていた。
匂いは、もうしなかった。
(次回)
第二十五話「川上へ」
爺さんとガイが川上へ発つ。留守を言いつけられたアレンだが、朝の川で、沈んだ魔素が昨日より下流へ伸びていることに気づいてしまう。二人が戻るのを待つべきか、伝えに走るべきか。八歳の足が、初めて自分で選ぶ。




