濁り
川に通いはじめて、六日目の朝だった。
夜のうちに雨が降ったらしく、川原の石がまだ黒い。水は昨日より少し嵩が増していて、朝日を受けた表面が白っぽくちらついている。
俺は稽古着の裾をたくし上げて、水に入った。
冷たさに、もう肩がすくまない。足首から先が他人のものになる感じも、三日目にはなくなった。慣れるというのは、案外あっけない。
向こう岸の岩を見て、足を出す。
一歩。二歩。三歩。四歩目で、輪が出た。
(四歩。山道と、やっと同じところまで来たか)
水の中の一歩は、朝に一度、必ず数え直される。昨日の四歩は、今日の四歩を保証しない。持ち越しのきかない相手は、言い訳の余地もくれない。それが川のいいところだと、この数日で思うようになった。
岸に戻ろうとして、足を返した。
そのときだった。
脛のあたりを抜けていくはずの、細くて速いものが──途中で、止まった。
足が勝手に止まっていた。
俺は水面を見た。何も変わっていない。石が沈んで、水が流れて、光が跳ねている。目に映るものは、昨日とまったく同じだ。
もう一度、意識を体の中の糸に落とす。
やはり、おかしい。
川の魔素は、留まらない。触れたと思った次の瞬間には、もう下流にいる。すくおうとすれば指の間を抜けていく。この六日で、俺の手はその手触りをすっかり覚えていた。
その速さが、川上の一角でだけ、鈍っていた。
少し上流に、大岩が川を半分せき止めている場所がある。裏側に水が回り込んで、いつも小さな淀みができている。夏の子供が小魚を追い込む、あの窪みだ。
そこの魔素が、沈んでいた。
重い。山の土のそれに似ている。似ているが、違う。土の魔素はゆっくり沈んで、ゆっくり滲む。掌に乗せた砂のように、こちらの手の形に留まる。
淀みのそれは、留まるのではなく、動けずにいた。
ぬるい。それがいちばん近い言葉だった。
「アレンー! おそーい!」
川原の上から声が降ってきた。振り向くと、エルナが土手を駆け下りてくるところだった。相変わらず、坂を走って下りる。
「エルナ。ちょっと来い」
「なに。もう四歩いったの?」
「そうじゃない。……お前、今日、風がおかしくないか」
エルナは足を止めて、きょとんとした顔をした。それから律儀に目を閉じて、首を軽く傾け、しばらくじっとしていた。こいつはこういうとき、ふざけない。
「……別に。いつもの川の風だけど」
「そうか」
「なんかあった?」
「いや」
言いかけて、口をつぐんだ。
俺が感じているのは、俺だけが感じているものだ。目に見える濁りがあるわけでもない。魚が浮いているわけでも、水が臭うわけでもない。淀みの水を掬って掌に乗せてみたが、澄んでいた。
(再現性がない。裏の取れない一件を、報告に上げるのか)
前世で、似た場面があった。深夜の当番で、数字がほんの少しだけ妙な動きをしていた。閾値には届いていない。翌朝には戻っている。俺は日誌に一行だけ書いて、口では何も言わなかった。三か月後、それは止まった。原因を辿ったら、あの晩の一行に行き当たった。
あのとき俺は、確信がなかったから黙ったのではない。
確信がないことを言って、間違っていたときの顔が、嫌だったのだ。
水から上がって、石の上に置いた手ぬぐいを取った。エルナが横で、俺の顔を覗き込んでいる。
「言えばいいじゃん」
「……何を」
「なんか言いたそうな顔してる。あんた、隠しごと下手なんだよ」
こいつは時々、まっすぐ急所を踏んでくる。
爺さんは、いつもの石の上にいた。
俺は正面に立って、しばらく言葉を探した。探しているうちに、爺さんの方が先に口を開いた。
「言え」
「まだ、何も言ってません」
「顔に書いてある」
降参して、俺は話した。淀みの魔素が沈んでいること。手触りが土に似ていて、けれど土とも違うこと。水は澄んでいて、魚も普通にいること。感じているのが俺だけだということ。
全部言い終えてから、余計なことまで付け足した。
「たぶん、気のせいです」
爺さんの目が、すっと細くなった。
「アレン」
「はい」
「気づきを軽く見るな」
東の森のときと、同じ言葉だった。あのとき俺は、山の魔素の乱れを爺さんに報告した。あれは角兎の群れだった。
「お前は先に、気のせいだと言った。誰に言われる前にだ」
「……はい」
「なぜ先に言う」
答えられなかった。
「外れたときに、恥をかかんためだ」
爺さんは立ち上がって、木剣を杖のように石に突いた。
「恥をかきたくない者の報告は、いつも遅い。遅い報告は、報告ではない。知らせだ」
知らせ。事が起きてから届くもののことを、この人はそう呼んだ。
俺の背筋が冷えたのは、叱られたからではなかった。前世で三十五年やってきた仕事の要点を、剣より他に何も知らないはずの爺さんに、一息で言い当てられたからだ。
「行くぞ。案内しろ」
大岩の淀みに、三人で立った。
爺さんは水に入らなかった。岸にしゃがんで、腕を肘まで沈める。目は閉じていない。ずっと、水面ではなく、水の中を見ていた。
長かった。
「爺さま、なんか分かる?」
エルナが我慢できずに聞いた。爺さんは腕を上げて、袖を絞りながら答えた。
「わしには、魔素の手触りは分からん」
あっさりしたものだった。
「五十年剣を振っても、そこは見えん。お前の目は、わしより先を見とる」
「じゃあ、俺の勘違いってことも」
「ある。だが、わしにも見えるものはある」
爺さんは淀みの縁を指した。
「水草が、根元から茶色い。上流の草は青い」
言われて、俺は水中を覗き込んだ。細長い水草が、大岩の裏側でだけ、色を失っていた。上の流れに揺れている同じ草は、はっきりと青い。
「それから、蛙が鳴かん」
息を止めて、耳を澄ました。
鳴いていなかった。この時期の川原は、夕方でなくても、どこかで必ず一匹は鳴いている。俺はそれを、六日間、ずっと聞き流していた。
(俺は魔素ばかり見ていた。目と耳が、遊んでいた)
「魔素が沈んどるから草が枯れたのか、草が枯れる何かがあって魔素が沈んだのか。順番は分からん」
爺さんは川上に目をやった。大岩の向こうは林で、川はそこで曲がって見えなくなる。
「今日は、ここまでだ」
「上流、見に行かないんですか」
「子供二人を連れてか」
言い方は静かだったが、それきりだった。爺さんは俺たちを先に立たせて、自分は最後に川原を出た。歩きながら、背中越しに言った。
「今夜、お前の父に話す」
「父さんに?」
「森と川は繋がっとる。……あれは、そういうものを見た男だ」
その先は、なかった。
この人はいつも、半分だけ話す。壁の刃こぼれの剣も、そうだ。半分は、こちらが大きくなるのを待っている。
夜、囲炉裏の前で、父さんは爺さんの話を黙って聞いていた。
母さんが薬草を選り分ける手を止めて、俺を見た。俺は目を逸らした。
話が終わると、父さんは一度だけ頷いて、それだけだった。翌朝には、村の男が二人、鎌を持って川上へ歩いていった。俺は、それを土手の上から見送っただけだ。
布団に入って、今日を並べた。
沈んだ魔素。茶色い水草。鳴かない蛙。恥をかきたくない者の報告は遅い、という声。
俺は、確かなことを言える人間になりたいと、ずっと思っていた。分からないことは、分かってから口に出すものだと。
違ったらしい。
分からないまま言う。間違っていたら、間違っていたと言われる。それだけのことだ。それだけのことを、俺は前世で一度も選べなかった。
(未確認は未確認のまま上げる。判断するのは、俺じゃない)
八歳の体で、俺は今日、三十五年分の宿題を一つ返した気がした。
軒の外で、夜風が鳴っている。蛙の声は、遠くの田んぼの方からは、ちゃんと聞こえていた。
川上だけが、静かだった。
(次回)
第二十四話「上流の匂い」
川上を検分した村の男たちは、何も見つけられずに戻ってくる。それでも淀みの魔素は沈んだままで、水草の茶色はゆっくり広がっていく。爺さんは稽古の場を川から動かさない。動かさない理由を、アレンは自分で考えることになる。




