流れの中で
夏が本気を出した日、爺さんは俺たちを稽古場に入れなかった。
「今日から川だ」
庭の入口に立ったまま、それだけ言って山を下りはじめる。エルナと顔を見合わせて、慌てて追いかけた。木剣を担いだ背中は、朝から一度も振り返らない。
村の東を流れる川は、この時期がいちばん浅い。子供の膝から、深いところで腰まで。石が多くて、日が高くなると水面がちかちか光る。夏の子供の遊び場だ。
俺は稽古着のまま、水際に立った。
「入れ」
「……そのままですか」
「そのままだ」
言われた通り、足を入れた。冷たい。山からの水は真夏でも冷たくて、足首から先が一瞬で他人のものになる。
「歩け」
歩いた。三歩目で、爺さんの声が飛んできた。
「波を立てるな」
足を止めて、水面を見る。俺の膝のまわりから、輪が広がっていた。ひとつではない。一歩ごとに、いくつも。下流に向かって、ずっと。
山道で残していた足跡は、あとから見に行くものだった。濡れた土は正直だが、正直な返事をよこすのは歩き終わってからだ。
水は違った。
いま押しつけた分が、いま、目の前に丸くなって出てくる。
(即時反映か。ログを待つ必要がないのはありがたいが、容赦もないな)
言い訳の余地が、一つもない。
山道で五歩まで来ていた一歩は、水の中で一歩に戻った。
正確には、一歩も続かなかった。踏んだ瞬間に波が出る。押しつけたつもりがなくても出る。石を避けようとして体が傾けば出るし、冷たさに肩がすくんでも出る。
「あははっ、アレン、水しぶきすごい」
川原の石の上で、エルナが腹を抱えていた。こいつは今日も走り込みだが、川原の石は足場が悪いので、走らせておくと勝手に転ぶ。さっきから一回転んで、それでも笑っている。
「うるさい。じゃあお前がやってみろ」
「やだよ。冷たいもん」
言いながら、エルナは足だけ水に浸けて、そのまま二、三歩、川の中を歩いた。
波が、ほとんど立たなかった。
俺は自分の目を疑って、あいつの足元を見た。膝の下で水が割れて、また閉じる。それだけだ。輪が広がらない。
「……お前、なんでできるんだ」
「え? 何が」
「波」
エルナは自分の足元を見下ろして、首をかしげた。
「なんも考えてないけど。冷たいから、早く出たいなーって」
それだ、と思った。
こいつは水の中を「歩こう」としていない。ただ通り過ぎようとしている。目的が向こう岸にあるやつの足は、水に用がない。
俺は水に用がありすぎる。一歩ごとに、うまくいったかを水面に聞きに行っている。
雪の日に覚えたはずのことだった。確かめに行くと、できなくなる。
(同じ罠に、季節を変えて二回。学習していないな、俺は)
息を吐いて、顔を上げた。
向こう岸の岩を見た。あそこまで行く。それだけを決めて、足を出す。
一歩。二歩目で、輪が出た。
それでも、さっきよりずっと小さい輪だった。
昼を過ぎて、体が水に慣れてきた頃だった。
俺は気づかないうちに、足の裏だけでなく、体の中の糸に意識を落としていた。歩くための集中が、いつのまにか、いつもの魔素の感じ方に切り替わっていたらしい。
そして、手が止まった。
水の魔素が、土のそれと、違う手触りをしていた。
言葉にするのが難しい。山の土の魔素は、重い。ゆっくり沈んで、ゆっくり滲む。掌に乗せた砂みたいに、こちらの手の形にじっと留まっている。
川の魔素は、留まらない。
細くて、速い。触れたと思った次の瞬間には、もう下流に行っている。すくおうとすると指の間を抜ける。そのくせ、抜けたあとに、ひやりと跡が残る。
同じ魔素だ。俺が生まれてからずっと見てきた、あの粒だ。
なのに、場所が違うだけで、こんなに手触りが違う。
「爺さん」
岸から声が返ってきた。
「なんだ」
「水の魔素って、土のと違うんですか」
しばらく、返事がなかった。俺は膝まで水に浸かったまま、爺さんの顔を見た。爺さんは、俺を見ていた。
「違うと、思うか」
「思います。……手触りが」
「そうか」
爺さんは石の上に腰を下ろして、川を眺めた。
「同じだと言う者もおる。違うと言う者もおる。どちらも間違ってはおらん」
「どっちなんですか」
「知らん」
この人はときどき、こういう答え方をする。はぐらかしているのではなく、本当に知らないと言っている顔だ。知らないことを知らないと言える大人は、前世にもそう多くはなかった。
「ただ、剣士としてはこう教わった。──水辺の剣は、山の剣より速く振れる」
「速く?」
「理由は誰も知らん。だが五十年振っていれば、分かる。あれは体が軽いのではない。振ってから止まるまでが短い」
俺は自分の右手を、水の中で振ってみた。抵抗がある。当たり前だ。
けれど、水から上げた腕は、朝より軽い気がした。
父さんの火を見た日に、俺は考えた。属性というのは、魔素の方言みたいなものではないかと。火の方言が上手いのが火属性で、風の方言が上手いのがエルナだ、と。
だとしたら。
方言は、人だけのものではないのかもしれない。
山には山の訛りがあり、川には川の訛りがある。魔素は場所ごとに違う喋り方をしていて、俺はいま、初めて別の土地の言葉を聞いている。
(母語が違うんじゃない。方言が違うだけなら、耳を慣らせば聞き取れる)
そこまで考えて、俺は考えるのをやめた。
筋は通る。通りすぎるくらい通る。だが、それを確かめる方法を、俺は一つも持っていない。手触りが違うと感じているのは俺だけで、爺さんですら知らんと言った話だ。
仮説は、仮説のまま置いておく。前世で覚えた数少ない知恵の一つだった。確かめられないものを信じ込むと、確かめる目が濁る。
昼、川原の日陰で握り飯を食った。
母さんが持たせてくれたやつだ。塩が濃い。夏はこれくらいでちょうどいいのだと、毎年同じことを言われる。エルナは自分の分をとっくに食い終えて、俺の膝の横に転がっていた。
「爺さま。なんで川なの」
行儀の悪い聞き方だったが、爺さんは怒らなかった。石にもたれて、目を細めている。
「山で覚えたものは、山でしか使えん。それでは足らん」
「どういうこと?」
「同じ一歩を、土で踏め。水で踏め。石で踏め。三つで踏めるようになれば、それは体が覚えたということだ。一つしか踏めんなら、覚えたのは体ではなく、その場所だ」
握り飯を持つ手が止まった。
場所が覚えている。妙な言い回しだが、心当たりがありすぎた。稽古場の平らな土の上でだけ、俺の一歩はよく続く。あそこは俺の足が何十日も同じ場所を踏んだ土だ。俺が上手くなったのか、土が俺に慣れたのか、区別がついていなかった。
「剣士団では、夏の三月を川でやった」
ぽつりと、爺さんが言った。こちらを見ないまま。
「上流から下流へ、隊列を組んで渡る。渡り終えたら、また上って渡る。それだけを、日が暮れるまで」
「意味あるんですか、それ」
「三月やった年の冬、氷の上で誰も転ばんかった」
エルナが「へえ」と声を上げて起き上がった。爺さんが昔の話をするのは珍しい。俺も同じことを思って、次の言葉を待った。けれど爺さんは、それきり口を閉じてしまった。
この人は、いつも半分だけ話す。壁に掛かった刃こぼれの剣のことも、まだ半分のままだ。
「アレン」
エルナが、俺の顔を覗き込んだ。
「あんた、水ん中にいるとき、顔が違う」
「顔?」
「うん。山だと、こう……眉に力入ってんの。川だとぼーっとしてる。今日、ずっと」
自分の眉間を指で押してみた。言われてみれば、朝からずっと力が抜けている。
冷たさのせいだと思っていた。そうではないのかもしれない。
山道の稽古は、俺が土に問いかけて、あとから答えをもらう。川は問いかける前に答えが出る。返事の早いものを相手にしていると、こちらは考えるのをやめる。
考えるのをやめた俺の方が、うまく歩けている。
(いちばん優秀な仕様は、俺が黙っていることらしい)
情けない話だが、認めるほかなかった。
日が傾いて、川の水が金色になった。
俺は最後にもう一度、向こう岸の岩を目指して歩いた。
水の冷たさは、もう感じない。足の裏が石の形を勝手に読んでいる。細くて速い魔素が、脛のあたりをすり抜けていく。すり抜けさせておく。捕まえようとしない。
三歩、進んだ。
輪が、出なかった。
四歩目で崩れて、水が跳ねた。それでも三歩だ。朝は一歩も続かなかった。
振り返ると、川原でエルナが立ち上がって、こちらを見ていた。両手で口を押さえていない。ただ、こぶしを握って、小さく振っていた。
声には出さない。俺がそう頼んだからだ。
「三歩!」
……出していた。
「声出すなって言っただろ」
「今日は特別! だって三歩だよ!」
爺さんは石の上で、湯呑みも持たずにただ座って、それを見ていた。何も言わなかった。
褒めない代わりに、この人は、日が沈むまで一度も帰ろうと言わなかった。
夜。
濡れた稽古着を軒に干して、俺は布団に入った。指の皮がふやけて、まだ戻らない。
目を閉じると、体の中に、あの細くて速い感じが少しだけ残っていた。川から持って帰ってきたわけではないだろう。俺の中の魔素が、川のそれを真似ているのだと思う。真似ているというより、思い出しているような感じだ。
その感覚に、俺は名前をつけなかった。
名前をつけると、確かめに行きたくなる。
あと七歩。山道で十歩、水の中では、まだ三歩。夏はまだ半分も終わっていない。
(覚える言語が増えるのは、悪いことじゃない)
軒の下で、乾ききらない稽古着が夜風に鳴っていた。明日も川に立つ。波を立てずに、向こう岸まで。
(次回)
第二十三話「濁り」
数日後の朝、川の魔素の手触りが、一か所だけ変わっていた。細く速いはずの流れが、上流の淀みでだけ重く沈んでいる。気のせいだと思いたいアレンに、爺さんは短く言う。気づきを軽く見るな、と。
お読みいただきありがとうございます、玲鈴です。第二十二話、いかがでしたでしょうか。アレンにとって初めての「別の場所の魔素」の回でした。土と水では手触りが違う──この気づきが、彼の中でどう育っていくのか。次話では、その手触りが少しだけ不穏な形で返ってきます。感想やご評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。




